ミュンヘン

a_munich_hiスピルバーグの最新作「ミュンヘン」を観に行く。一言で言うと、計算され尽くしたリアルで覆い尽くされたウソ映画の傑作。つまり、この映画はフィクションとして観るならば満点に近い。しかし、ファクション(事実をもとに再構成した物語)として見るならば欺瞞に満ちた作品である。彼の映画作りが天才的なのは誰の目にも明らかなのだから、もちろんこの批判はかなり次元の高い位置での批判である。

 全く個人的な意見だがスピルバーグにはこうした政治的な作品は似合わない。「シンドラーのリスト」然り。「プライベート・ライアン」然り。自由、平和、愛。。彼がどのようなメッセージを出そうとも、映画がうますぎてわたしにはすべておとぎ話のようにしか感じられないのだ。いや、おとぎ話ならまだいい。ヘタすると罪悪に見えてくることもある。可哀想だが、これはビッグネームが背負わなければならない宿命だ。かつてのP・マッカトニーもそうだったなぁ。

 一流アーティストは政治問題に関わることはできない。関われば殺される。それがわたしの持論だ。政治に口を出せるのは二流、三流。理由は簡単。影響力がないからである。冷静になって考えて見ればすぐに分かる。イスラエル-パレスチナ問題をテーマにした映画を、今、世界で一番売れっ子の監督が本気印で撮れるはずがない。スピルバーグだって命は惜しいし、人間関係だってある。当然、意見を自重するところや表現を曖昧にするところが出てこざるを得ない。実際問題として、この映画には米政府関係者やイスラエル当局がかなり口を挟んでいるだろう。イスラエル本国の公開ではシャロンの参謀が宣伝担当になっていると聞いた。シャロンだよ。シャロン。映画は一見すると、ニュートラルスタンスで撮られているかのように見えるが、裏では極めて計算高い構成が張り巡らされている。例えば、テロリスト側の殺戮シーンは何度なく出てくるがイスラエル側の殺戮シーンは1シーンも出てこない。数では圧倒的にイスラエル側が勝っているにもかかわらず、だ。

 スピルバーグの政治的信条は知らない。しかし、芸術的行為というものは情動を制御したその瞬間に全生命力を失う。作る側の人間にはそういう覚悟が必要である。才能や技量はその次に来るものだ。一方、政治的行為とは無意識のコントロールである。だから、本来、政治と芸術は真っ向から対立する類いのものだ。神的暴力を絶えず飼いならそうとする神話的暴力。そして、神話的暴力から絶えず逃走しようとする神的暴力。それが政治と芸術の健全な関係というものだ。結果、政治に飼いならされた芸術はもはや芸術的なものではなく政治的なものとなる。その意味でこの作品は極めて政治的な作品なのである。

 さて、最終的にこの映画からどのようなメッセージが出されたか——皆さん、殺し合いはよくありません。報復の連鎖は止めましょう。これだけだ。もちろん、それが悪いというのではない。問題は世界一流の表現者がイスラエル-パレスチナ問題に関してこの程度の批判しか行えないという、そのいかんともし難い文化状況なのだ。本作品は早くも本年度アカデミー賞受賞候補に上げられている。スピルバーグさん、受賞式では黒いタキシードを来て、奥方と一緒に赤い絨毯の上をフラッシュライトを浴びて歩くのかい?そりゃないだろう。

 スピルバーグには徹底した娯楽作品を作って欲しい。個人的には「激突」のような作品を望む。頼むから政治から手を引いてくれ。ヌース理論を映画化してくれよぉ。。