三重の球体

S_m_b ヌース理論は結局のところ、どのような世界イメージを提供しようとしているのか——今日は、それについて、半ばオカルト的に簡単にメモしておこう。

 存在世界には秘沈している三重の球体がある。それを見い出せ。ということである。三重の球体とは、普通の言葉で言えば「体(body)・魂(mind)・霊(spirit)」のことだ。ここでいう「体」とはモノ全般、「魂」とは空間、「霊」とは魂としての空間が球体に見えるようなもう一つ高次の球体空間、と考えるといいだろう。イデアは、つまるところ、この三重の球体構造をベースとして、それら相互に様々な幾何学的観念を張り巡らし、世界の創造をマニピュレートしていく。その意味で言えば、ヌース理論とはタマの思想である。玉(タマ)と魂(タマ)と霊(タマ)。これら三つの球体を知覚するセンサーを作り出すことさえできれば、創造の秘密を解く鍵が手に入る。

 noosの力自体は、この三重の球体構造の間をちょうど糸でかがり縫いしていくように、何度も何度も周回していく知性として出現する。noosがどのようにしてこうした旋回舞踏を始めることができたのか——それは、霊がモノへと舞い降りてくる現場を目撃したからだろうと思う。霊は自らをモノとして表現する。いわゆるペンテコスタ(聖霊降臨)の風景だ。世界中のモノというモノに霊が舞い降りてくる。それらはやがて雪のように降り積もり、モノをボガ・マテリア(神の物質)へと変えて行く。と言っても、それは決してファンタジー映画のように淡い色彩で生起するのではなく、明晰な知性のもとに、ありありとした現実として描き出されていく出来事になるだろうと思う。

 霊がモノへと降り立つ現場とは、いつも言ってるように4次元からの射影点である。この射影点は、対象を凝視する一点に、自らの魂のすべてが凝縮されているという意味を持つ。今、君が見ている風景が君にしか見えないという事実。このことについてじっくりと考えてみるといい。君のアイデンティティーが見ることその一点にあるのも、元はと言えば、その一点に、君の見るもの、触るもの、聞くもののすべてが再帰してくるような仕組みが、この空間にセットされているからなのだ。
 モノは見るもの=魂によって支えられている。無数の魂によって、モノが支えられているということにもっと敏感になること。モノをかたどっているその皮膜に魂の集合体としての霊そのものの息吹を感じ取ること。そうした感受性が研ぎすまされたときに、聖霊降臨という奇跡は起こる。

 いずれにせよ、この出来事が生起してくるためには、プライマル・ガイスト(原初霊)が形成される必要があるのかもしれない。これは、現存する魂のすべてを集合させた巨大なタマのようなものだ。死者たちが待機する場所——この場所には一定の容積があり、時期が到来すれば、このタマは弾け、一斉にプライマル・ガイストとして活動を開始し始める。死者の復活だ。しかし、勘違いしないよう。それは肉体としてゾンビのように墓から這い出てくるのではなく、ボカ・マテリアを支える一個の魂として活動を再開するのだ。僕らが今、見ている自然は、そうした、死からの復活を遂げた無数の魂たちの共同体として見なされるべきである。世界が尊厳に値するのもそのためなのだ。

 ちょっと宗教臭くなってしまった。パス。ここに挙げた三重の球体を、物理学のように、スカラー空間、ベクトル空間、スピノール空間と呼ぶもよし、オカルティストのように、体、魂、霊と呼ぶもよし、哲学者のように、客観、主観、もの自体と呼んでも構わない。それらに一体何の違いがあるだろう。重要なことは、科学的思考が持った物質的同一性と、宗教や哲学的思考が持った観念的同一性を、互いにつなぐ架け橋を見いだすことだ。その架け橋こそが、絶対的差異存在、つまり、あらゆるものの調停者たるイデアなのである。