ツイスターの思い出

 僕には苦い思い出がある。その記憶は今でも鮮烈だ。その経験のせいでヌースのようなことをやり続けているんじゃないか、と思う事もある。
 
 小学校に入学したばかりの頃だった。最初に「右」と「左」という方向のことを習ったときのことだ。先生は教壇に立って言う。「こちらが右手です。」僕は先生が挙げた方と同じ手を挙げて思う。「こっちが右手か。。。」そしたら、先生がいきなり、教壇から降りてきて、「違いますよ、ひろのぶくん、こっちです。」と反対の手を挙げさせた。
 文字通り右も左も分からなかった僕は、何がなんだか分からなくなり、パニくった。先生が挙げた方と同じ手を挙げたのに、先生はそれは違うというのだ。慌てた僕にさらに追い打ちがかかる。その先生は生徒たちを相手に右と左を覚えさせるために、旗揚げゲームならぬ「お手上げ」ゲームを始めたのだ。
「はい、右手を挙げて〜。」「はい、次は左手〜。」「はい、左手おろして、右手をあげて〜。」

 かんべんしてくれ。右と左さえもよく理解できていない僕にそんなことをさせないでくれ。僕は仕方なく、皆の真似をして、振り付けを覚えていないダンサーのように、一呼吸タイミングを遅らせて手を挙げるしかなかった。周囲の同級生たちを見渡すと、僕と同じような奴らが結構いた。おそらく1/4ぐらいだったと思う。おどおどしながら周りを伺いながら手を挙げてるやつ。意味も分からず両手をずっと挙げて笑っているやつ。いつのときでも人間は変わらない。想像界からなかなか抜けきれなかった僕は、こうして「恥」の洗礼を浴び、象徴界へと引き込まれていくことになる。

 小学1年生と言えば、年齢でいうと6〜7歳だ。当時の僕の意識はまだ外界と内界の区別が曖昧だったのだろう。左右認識の曖昧さと内界外界認識の曖昧さは深く関係している。 「前」という方向、それはほんとうの僕がいるところである。幼児たちはまだその世界の中にいる。左右という方向の分別がつきだすと、突如として前はベリベと音を立てて、「前」と「手前」に引きはがされるのだ。そこに奥行きが生まれ、世界そのものだった僕が、世界と偽の僕とに分化する。そして、その偽の僕には「ひろのぶくん」という名前が刻印され、僕は文字通り、そこから小学生という肩書きを持って、社会の中で言葉として生きる人間となり、今では「半田広宣」に成りきって、あたかも一つの実体であるかのように振る舞っている。
「ひろのぶくん。ひろのぶくん。違いますよ、それは左手ですよ。」
僕には今でもあの先生の声が忘れられない。彼女は何をしたかったのだろう——。ヨハネの首を切り落として、その血塗られた頭部をそっと僕の首の上にすげたのだろうか。呪いのかかった首には今では蛇がうじゃうじゃ巻きついて、半田広宣という幻想から逃れられないでいる。
 
 前-後(奥行き)を認識しているのは左右からの認識である。認識の視線が前後方向から左右方向に方向を変えるとき、人間の意識は同時に想像界から象徴界への参入を余儀なくされる。点だったものがグルリと90度横回転し、直線になる。そして、その直線がかつて点だったものを直線と見なすようになる。直線と見なされた点とは本当に点なのか?いや、どう考えても違う。それは時空上のあらゆる風景を経験することのできる僕の知覚野=前ではなかったのか——。
 さて、ツイスター空間についてのよくある説明——光の伝幡する軌跡は、物理的時空の中では直線となるが、ツイスター空間の中では、一つの点となる。光の軌跡は、すなわち相互作用の伝搬する軌跡に他ならないから、ツイスター空間は、相互作用によって結ばれた時空の点の集合を、ひとまとめにして点として表した空間だと考えることができる。
 
 ヌースの説明——僕の前と君の前が交差するところがツイスター空間である。点のイデアはそこに結び目として生まれてくる。。。。