魚たちの国

007
 水の中を茫漠とした意識で泳ぐ魚たち。おそらく彼らはそこが水の中であるということを知らない。目前に浮遊するプランクトンをただパクパクと食しながら、その見えているのか見えていないのか分からないようなギョロリとした目玉で夢遊病者のように今日も海中を徘徊している。彼らはおそらく徹底した斜視である。その斜視のせいで、彼らには前が見えていない。いや、正確に言えば、前後を左右に見てしまっている。この意識が彼らの目の生態学的造形を決定づけている——。

 魚たちにとっての、この「前」の見えなさは、現実を見えなくさせられた人間の意識の一種のメタファーだろう。僕らは確かに自分が人間の身体を持っていると信じて疑わない。しかし、その身体に自分の意識がくまなく行き届いているかというと、全くそうはなっていないのが分かる。自意識で自在にコントロールできるのは随意筋関連の部位ぐらいのもので、鼓動、血流、内臓機能、細胞内部の活動など、身体のほとんどの機能に対して、「わたし」は無力だ。その意味で言えば、自我意識は人間の身体が生成している場所からは遠くかけ離れたところにへばりついた寄生体のようなものである。だから、「わたし」はなぜ人間が二本足で歩くのか知らないし、なぜ二つの眼が顔面についているのかも知らないし、そもそも顔面というものが何なのかも知らない。となれば当然、「前」という方向についても何も分かっちゃいない、と言っていい。

「前を見る」ということはどういうことだろう?君は本当に前を見ているか? ひょっとしてあの魚たちのように常に横を見ているのではないか?前とは何だ?ちょっと考えて見ればすぐに分かることだが、「前を見る」という物言いは正しい日本語ではない。というのも「見ること」は絶えず「前」においてしか生起しないからだ。見えるのはいつも前――何のことはない。前とは世界が存在の開けを示してくる方向なのだ。しかし、僕らが慣れ親しんだ空間には、この「前」と相対する方向としての「後ろ」があり、かつ、左-右や上-下といった計6つの直交する方向性も存在している。古代人たちは、この6つの空間の方向性のことを「六合(くに)」と呼んでいた。もちろん、この「くに」は、現代人が考えているような「国(くに)」とは全く違ったものである。

 「国」とはその字体が表しているように、有限の囲いによって内部に閉じ込められた玉の場所である。玉とは本来、物質化した霊(たま)を意味する言葉だが、ヌース的解釈ではこれは物質概念そのもののことにほかならない。世界は玉で満たされているのだ。よって、霊性が囲われた場所としての国とは、この場合、僕らが宇宙と呼んでいる場所性(時空)のことを意味すると言っていい。
 時空はご存知のように空間部分だけ取り出せば3次元だ。しかし、この「国」的な3次元空間には「前後・左右・上下」といった身体側から派生してくる方向概念は一切存在していない。近代が作り上げた科学的な世界観においては、3次元の各方向は互いに入れ変え可能であり対称性を持っている。言うなれば、そこでは見事に「六合(くに)」が去勢させられているのだ。

 話を分かりやすくしよう。僕らはこの近代が宇宙と呼んではばからない平板的な3次元の延長性を、すべて「前」として経験することができる。グルグル身体を回せばいいだけの話だ。しかし、そのとき、当然、この3次元は「後ろ」としても経験されていることだろう。この両者は同じ空間ではない。というのも、前を経験しているとき、同時に僕らは後ろを想像的なものとして経験しているからだ。いや、後ろだけじゃ話は済まない。左-右だって、上-下だって、それらは常に同時に身体感覚から派生してくる方向概念として併存している。となれば、「六合(くに)」には、本来、六種類の3次元空間が存在していることになる。

 話を魚に戻そう。ヌース理論がいう「水」とは、これら身体空間における方向の差異が見えない3次元世界のことを指す言葉である。つまり、水とは「国」の中に捕われの身となった「六合」のことなのだ。そこでは「六合(クニ)」は「合六(ニク)」へと反転している。僕はこのニク化した身体を水蛭子(ヒルコ)と呼んでいる。水蛭子は水に溺れた種族として、左右方向への視力を用いて前後を見ている。君たちが奥行きに感じている距離とはそうした斜視の視力の産物である。

——魚類とはなんですか。
——原初精神の投影。人間の内面の意識次元の投影です。(シリウスファイル)