太陽と月に背いて(1)

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(写真はhttp://journal.mycom.co.jp/news/2003/10/24/からお借りしました)

 以前にもこのブログに書いたことがあると思うのですが、イシス-オシリス神話で有名な「オシリス」神というのは、もともと語源的に「無数の目(os-iris/オス-アイリス)」という意味を含み持っています。ご存知の方も多いと思いますが、オシリス神は古代エジプトではオリオン座と同一視されていました。

 オコツト情報が何故にオリオン座とプレアデス星団のことを宇宙の根本的な二元力の源泉として語ったかは、正直言ってまだ定かではありません。僕としては、長年「シリウスファイル」の解読に努めてきて、オリオンとプレアデスという関係がヌース理論がいうところの「対化」、つまり僕らが他者と自己と呼んでいるものの成立基盤と極めて深い関わりを持っているものなのではないかと見当づけています。その意味で言えば、ヌース理論は一見、壮大な宇宙論には見えますが、最終的には自他を巡る倫理的関係を軸とした意識構造論に集約されていくことになるのではないかと思います。つまり、宇宙に脈動するすべての物質的存在は自他関係が織りなす意識的ウェブの影だということですね。

 こうしたパースベクティブを持って、オシリス神の語源となっている「無数の目」の正体について推理してみると、これは「他者の眼差し」の意味として解釈するのが最も自然です。「わたし」はこの世にたった一人ですが、他者は無数います。この「一」と「多」の関係がプレアデスとオリオンの関係だというわけです。わたしにとってのあなたの眼差し――実はそれがこの世界を作り出した神の正体。。。。他者が神ぃぃ〜!?そんなわけねぇだろ!といった言葉があちこちから聞こえてきそうですが、ここで言っている他者とは、別に「あなた」の目の前に見えている他者のことではありません。他者自身のことです。「わたし」はどうあがいても他者自身になることはできません。他者の目がオリオンだとすれば、オリオンとは他者が見ている世界そのものに存在していることになります。しかし、それは、個々の「わたし」には絶対的に接触不能な領域に存在していることが分ります。おそらくそれは死の向こう側に存在しているものなのです。

 僕らが普段、親子や夫婦、恋人、友人間などで接触している他者とはあくまでも他者を外部から見た姿であって、内部から見た他者自身の姿ではありませんよね。早い話、他者が見ている世界を他者そのものに成り代わって「わたし」が経験することは不可能です。自己には決して到達できないこうした彼岸の場所のことをオコツトはどうも「オリオン」と呼んでいる、ということなのです。そして、そこに存在している未だ預かり知らぬ未来の「わたし?」のことをオコツトは「真実の人間」と言っています。つまり、真実のわたしとは他者としてのわたしのことであると。。ここには、イエスが「我は汝なり、汝は我なり、我らすべて神の子なり」と言ったときのあの「汝」よりも、さらに深い「汝」を巡る思考が存在しています。もし、自分探しの旅というものを実行するのであれば、スピリチュアリストと自ら名乗る人はこの「ほんとうのわたし」であるところの「汝」へと至る道の探索を徹底してやるべきだと思います。というのも、それが真の意味での「ほんとうのわたし」だからです。

 実のところを言えば、わたしとあなたの間には永遠という名の距離がある――

 こうした「永遠の汝」とも呼べる彼の地へと「わたし」が赴くために一体、わたしは何をすればいいのか。ヌース理論からの示唆はこうです。まずは手始めに自分の実存というものを奪回する必要がある——僕が失礼だとは知りつつ、いつも「オープン・ユア・アイズ!!」とあちこちで吠え立てているのもそのためだと思って下さい。——つづく