BETWEEN TIDES(ビットウィーン・タイズ)

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 マヤ暦関連の書籍を数冊出している高橋徹氏との対談の企画が決定した。主催者の意向でなるべく少人数でやりたいということで、小田急線の狛江駅のそばにある泉の森会館という小さなホールが会場に選ばれた。日時は12月20日の土曜日、午後6時半から9時半まで。3時間の長丁場だ。高橋氏とお会いするのは実に5年ぶりぐらいだろうか。きっとスリリングなイベントになるに違いない。今から楽しみでならない。
 イベントの詳細を知りたい方はこちらのページへ→http://www.point0.jp/symmetry/exhibition.html

 高橋氏との初めての邂逅は確か1992年だった。そのときの様子は『2013 : 人類が神を見る日』に詳しく書いたが、当時の僕にとってこの邂逅は実に鮮烈な体験だった。ニューサイエンス系の知識一辺倒だったその頃の僕に、ブラバツキーやシュタイナー、さらにはグルジェフなど、20世紀思想の地下水脈とも呼べる世界の存在を教えてくれたのが彼だったからだ。

 当時、高橋氏の研究はマヤ暦(ツォルキン)を中心としたものだったが、マヤ暦が巷でブームとなるにつれ、本人自身、マヤ関連の動きからは身を引いていったようだ。その当時,いつも「マヤ暦のメッセンジャーとしての高橋徹という肩書きは持ちたくない」と話していたっけ。彼のオリジナル研究は太陽系の各惑星周期と人間の無意識構造の発展に潜む関係性を調べることにあった。占星学に言うように、人間の無意識構造と太陽系構造の関係をまずは自明のものとし、さらにそこに、公転や会合などの惑星周期と歴史的無意識の進展関係を時間的な比率の観点に立って構造的に明らかにしようとする野心的研究だ。彼の研究が現在どこまで進んでいるのかは僕は詳しく知らないが、当時でさえかなり精緻な理論構築に驚かされたものだ。今はおそらく常人の想像力が及ばないところにまで進んでいることだろう。

 あれから20年近くの月日が流れたが、彼の思考空間にヌーソロジーの入射角からアクセスできるかどうかはまだ不明だ。素粒子空間と太陽系空間の連結のルートがまだよく見えてこないからだ。ヌーソロジーの思考が太陽系空間に出て行くためには、身体空間の射程をまずは明確に捉える必要があると考えている。身体と大地は単なる物質的なエネルギー循環だけではなく、意識的にも分ち難く結びついており、その大地が一つの球体として出現している場所が太陽系空間なのである。実存的地球とでも言えばいいのだろうか、人類全体が意識している身体空間の在り処を僕らは深く掘り下げて思考する必要がある。回転が精神の象徴であるならば、太陽系とは人類全体の身体空間の奥にさらなる深みを持つ惑星的身体が具備している精神の表現の場として出現してくるはずである。

 その意味から言えば、現在の科学的な太陽系観は矮小極まりないものに堕している。コペルニクスの地動説以降、科学の目は常に世界視線となって地上を俯瞰するものとなってしまった。この世界視線が持った眼差しは、普遍視線(地上での人間が持つ等身大の視線)の中に育まれた人間の内在野での生活をことごとく隠蔽し、ごく表層的にしか事象を捉えることができていない。物質は常にその外皮に置いて分析され、物質の内的生活など存在しないと言わんばかりに、ただただ物理化学的知識のもとに記号の帝国を作り上げているだけだ。この記号の多様性は確かに饒舌だが、いかんせん概念がない。機械的な思考だけがまるでスケートリンクの上を滑る石ころのように単純な軌跡を描いて反復しているだけだ。そんなつるっ禿のような空間に太陽系を浮かべて分析したところで、太陽系はその深み方向にある本質を決して露にすることはないだろう。

 内在野に存在するn次元多様体として太陽系を捉えること。精神に内在する差異の連動系として諸惑星の回転を捉えること。これは身体空間の延長に地球空間や月空間を感じ取り、そこに生まれてくる身体的意義を通して、諸惑星の調和的運動を思考していくことに他ならない。満月や新月とは何なのか。白道とは黄道とは?そして、太陽はなぜ核融合の場となっているのか——etc。
 こうした問題まで語り合えるかどうかは分らないが、空間を思考することと時間を思考することの対称性が垣間見える場所が作れれば、まさに「BETWEEN TIDES」というタイトルにふさわしいイベントになるだろう。ぶっ飛ばしまっせ!!