死が息づく場所を見つけて、死を生きるということ

向かい合う自己と他者が観察の視線を左右方向に向け、互いの視線を同一化させたとき、視線は虚軸から時間軸へと変わり、同時に奥行きだったところは虚軸から空間軸へと変わってしまう。この構造変動によって内部空間での回転は擬回転へと変わり、時間と空間によるローレンツ変換の世界が出現してくる。
 
こうした空間構造をベースにして考えると、奥行きを経過的な時間と見てしまうこと自体が存在からの逸脱だと言える。それは世界を横から見る位置に意識が落ち込んだ者たちの言い分だ。奥行きは時間なんかではない。二百万年光年先のアンドロメダ銀河を二百万年前の姿などと言ってはいけない。そうした言明は、わたしたちの意識的現実を全く反映していない。
 
銀河の星々にしても同様だ。純粋な奥行きにおいては、人はその星々の位置にいる。そして、一人一人の心の中にある純粋持続の力と繋がっている。科学的世界観が作り出している宇宙観は奥行きの本質を何一つ捉えていないのだ。科学が作り出しているこうした錯覚を、科学そのものの内部から、そのはらわたを食いちぎるようにして根底から是正していくこと。それがヌーソロジーに与えられた使命のように感じている。
 
奥行きは僕らの命綱だ。それは存在の力と直結している。その最初の入口は時間と空間の中では光のスピンとして見えている。奥行き本来が光のスピンであるにもかかわらず、人間は奥行きに幅を見てしまっている。その結果、本来の奥行きは幅側へと固定され、光のスピンが幅側に観測されることになる。光のスピンが2次元の自由度(平面)しか持てないのは、奥行き自体が光のスピンであることを、人間が忘れてしまっているためだ。
 
だれでも、奥行きにおいて生きているのだから、光の精神を持っている。「光になる」とは光の精神の中に自らの生命を感じ取ることだ。そこには時間に縛られることのない「永遠」がある。すべての人がこの「永遠」の上に生きている。「永遠」は、あらゆる存在者の土台であり、それは「死」の別名に他ならない。
 
死を生きよう。この露になった死の中に自らの重心を移していこう。それが意識の反転が持った本意である。

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