世界の復活

「他者視点から世界を見る」というとき、それを単に時間と空間の内部での肉体の位置の遷移のようにイメージしてはいけません。なぜなら、時間と空間というもの自体が「他者視点から世界を見る」ことによって成立してくるものだからです。自他の視点の遷移を行っている内的空間というものが別個に存在しています。
 
それが複素2次元空間における回転だと考えるといいと思います。物理学でスピノルの回転「SU(2)」と呼ばれているものの本性です。スピノルの回転は自他の観点を規定しているそれぞれ個別の無限遠点を舐めるようにして回っています。この回転は持続空間における回転なので非局所的なものです。
 
一つの物体を他者と一緒に輪になって囲んでいるとき、そこには無数の肉体の位置を繋いで作られる輪と、自他それぞれの観点を結んで作られる輪の二つが重なり合って存在しています。前者には内と外の区別がありますが、後者には内と外の区別はありません。というのも、観点は無限遠点になっているので自分の後方は向かい合う他者の前方になっているからです。これがメビウス空間が持った本質的な意味だと考えるといいでしょう。
 
つまり、ここには互いの「奥行き」を交換し合っている密やかな交感の場が活動しているわけですね。「奥行きは縮んでいる」わけですから、ここで生じている輪を真ん中の物体に重ね合わせても何ら問題ありません。この輪で全表面を覆われた物体が古代日本人が「もの」と呼んでいた存在です。
 
数学的にはSU(2)は3次元球面と同じかたちをしている(同相)と言われていますから、「もの」とは3次元球面という言い方もできます。目の前で物体が自転しているとき、持続空間においては同時に3次元球面が回転し、自他の持続体を一つの球体へとまとめています。その意味で「もの」は自他を自己の視点において統合していると言っていいでしょう。
 
この統合の結果として3次元の空間と時間、つまり、客観世界が生み出されてくるという仕組みが、素粒子物理の構造の中にはあります。ここには哲学でいうところの内在から超越への仕組みが空間構造として網羅されています。
 
カントが空間と時間は感性の直観形式だと言い張った、その証明がすでに素粒子物理の中に記されているというわけですね。このことは、時間と空間はわたしたちの外にあるのではなく、内の内に構成されている内在世界だということを物語っています。
 
この内的空間の方向に意識を向けることによって、世界は始めて宇宙生命と同期した現実存在となります。現在、わたしたちが見ている時間と空間の世界は時間と空間が生まれてくるこのプロセスを見落としているので、「無」同然の中身のない世界だと言っていいでしょう。外の世界など本来存在していないのです。以前、「わたしたちが見ている物質とはハリボテだ」と言った意味もそこにあります。このSU(2)の中からが立ち上がってくるのが物質を作っている原子核(陽子と中性子)です。
 
理性によって理性を超えること。ここに生まれてくるのがヌース(創造的知性)です。ヌースは今まで宗教やオカルティズムが語っていたことを何ら超越的なものを持ち込むことなく、物質を精神そのものへと裏返す思考によって証明していくことになると思います。その意味で世界とは常に十全かつ完全なものだと考えなくてはいけません。
 
世界を復活させましょう。わたしたち人間の思考の力で。

3-dimensional sphere