来れ、シリウスの世紀よ—カタカムナ、ハイデガー、ドゴン族

カタカムナ人たちが見ていたというトキトコロノマリ。それはハイデガーのいう存在と存在者が作る二重襞のイメージに近い。存在者は時間と空間の明るみに出つつも、それを送り届けた存在の方は潜在的な静寂の中に身を隠すのだ。彼は何処に—。
 
ハイデガーにおいては、この存在論的差異の乗り越えは大地、天、神的なものたち、死すべき者どもの関係性から思索することでなされる。ヌーソロジーにおいては、位置の変換、転換、等換、融和の関係性から思考される。この二つは図式的には似ている(下ケイブコンパス図参照)。
 
ドゴンのシリウス神話にも、これと全く同じ思考を行っていた形跡がある。それは—「10」の不動の記号—と呼ばれている。
 
—創造というメカニズムは「10」の不動の記号(二つの〈先導-記号〉と八つの〈主-記号〉)が、動いていく〈完全な〉記号に生命を与え、それが物を存在させるのだ、ということになる。『青い狐』p.76
 
二つの先導記号の一つは四元素を脱け殻にする。もう一つの〈脱け殻の記号〉の役割は、はじめの〈先導-記号〉の統括の下に創り出された混合体に用いられた四元素の脱け殻を、魂と生命力の貯えである〈主-記号〉に送り届けることである。—同p.77
 
前者がたぶん思形ψ9。そして、後者がたぶん、感性ψ10。
 
(ドゴン族のシリウス神話をガセとしてあざ笑っている連中が多いんだけど、そういう連中は『青い狐』を読んだのかね。アレはすごい本。誰も内容を理解できないので売れなくて絶版になってるみたいだけど、個人的にはホントすごい本)
 
ヌーソロジーが用いるケイブコンパスが示す二重襞は、そのままバイスペイシャル認識(幅支配の空間と奥行き支配の空間の二重性を意識にあげること)に対応している。
 
バイスペイシャル認識は、そのままモナド感覚をクリアに描像するための条件のようなものにもなっている。モナド化(包みつつ包まれる)—とは、奥行きで包んだものは幅においては包まれるようにして現れることを意味する。言うまでもなく、このとき「包まれるもの」が、物質だ。
 
ここで奥行きを持続と見なすなら、もはや、物質と精神の区別は意味を無くす。表象の膜が破れ、見るものと見られるものが一致した生成の思考が生まれてくるわけだ。それがヌーソロジーがヌース(能動知性)と呼んでいるものだと考えるといい。
 
物の外部から内部へ、翻って、物の内部から外部へ—。ヌースは思考をそのように展開し、今まで潜在的なものとして隠れていた超越論的なものを、その思考の中に経験していく。ヌーソロジーが「覚醒期」と言うものは、そうした新しい思考で世界が満たされていく時代のことを言う。
 
来れ、シリウスの世紀よ。

トキトコロノマリ
存在の二重襞