対象と情報―物と言葉

残念なことに、ハイデガーは量子論についてはほとんど語っていない。『技術への問い』に収められている「科学と省察」という論考の中で古典物理学と原子物理学の根本的な違いについて述べてはいるものの、深入りすることは避けている。残念だ。
 
ハイデガーはそこで自然を対象として見なす科学の視座を批判している。主観-客観関係は、どうしても、先日「ゲシュテル(集-立)」のところでも話した「用立て」へと回収されるというのだ。物を人間の生活の役に立つように改変するということ。そして、それを真っ当なものとしている私たちの日常感覚。
 
後期ハイデガーがひたすら訴える「性起(自性態)」という概念も、まさに、自然を対象として見なさないための思考の立ち上げへの格闘だった。言い換えれば、わたしたちは自らの精神をいかにして外化させることができるのか―この辺りが、ヌーソロジーとガッツリ問題意識を共有している。
 
考えてみれば、今では自然のみならず、言葉(ロゴス)までもがゲシュテルの体制で動いている。それは言葉が「情報」と名を変えたところに起こっている。情報戦略、情報産業etc。わたしたちは「用立て」のために情報を狩り集める。対象が物の死骸であるのと同様、情報もまた言葉の屍と言っていいものではないかと思う。
 
物は単なるエネルギーの塊ではないし、言葉も物を表示する単なる記号などではない。それらは、無窮の霊性が持った二つの性のようなものだ。ほんとうは女神と男神と呼んでもいいものではないかと感じる。それらを単に対象-情報と呼ばせている思考者の姿を、一度、じっくり想像した方がいい。
 
※下写真は、特定の雑誌を批判しているわけではないので、あしからず。