八つ裂きにされたオルフェウスの復活を!!

二重の国で歌声が
はじめてやさしく
永遠となる
 
―『オルフェウスへのソネット』リルケ
 
ヌーソロジーの文脈から言えば、素粒子の認識はハイデガーのいう「性起」というやつに当たるんだけど、これはハイデガーの歴史観でいうなら「新たな始元」に当たる。
 
人間の意識に素粒子認識が始まることによって、今までの歴史は終わり、新たな別の次元の始まりを迎えるということだ。これはドゥルーズのいう永遠回帰と同じものだね。
 
この「新たな始元」の自覚は、ヌース的に言うなら、時空的には無限大=無限小の覚知として開始されるのだけど、いつも言ってるように、この気づきは空間における幅と奥行きの交換によって思考可能なものへと転じてくる。
 
幅で空間を見れば無限大となるけど、奥行きで見れば、それは無限小に回収されるという意味だ。
 
同時にこれは他者構造(見られたところでの意識による世界構成)から自己構造(見るところでの意識による世界構成)へと向かう離脱でもある。他者視線を一度切ることによって、主観の下に眠っていた精神(持続体=存在)が目を覚ますってことなんだけど。
 
ハイデガー風に言うなら、これが「時空において最も遠くあるが、同時に比類なき近さとして現成する〈最後の神の到来〉」の意になる。
 
まったき奥行きにおいて人間は神(存在)と合流するってことだね。ハイデガーは存在のことを「根源的時間」とも呼ぶんだけど、これはヌースでいう持続空間のことを意味していると考えていいと思うよ。
 
今の僕らには、この持続空間が全く見えなくなっている。世界は硬直した物体の場所と化してしまい、それらはただただ有用性のもとに科学技術の対象としてしか見なされなくなってるでしょ。
 
ハイデガーは、こうした存在棄却の極まりにおいて「最後の神」が到来してくると考えてる。これもまたOCOT情報のいう「最終構成」の意味に近い。
  
ハイデガーによると、「最後の神」の到来は別の始元を発動させてくるんだけど、それは同時に、存在史的時空(今まで僕らが宇宙と呼んでいたもの)からの逃亡と、現存在(人間の意識)からの脱去を意味してる。
 
こうしたハイデガー後期の内容は、よくドイツ神秘主義の援用とか言って揶揄されるんだけど、僕からしてみれば、ほとんどルーリア神学(近代カバラ)をなぞっているかのように見える。「悪が混じった世界からの神の撤退によって創造が始まる」という神の逃亡劇による創造論のことだね。
  
だけど、こうした神秘主義的態度では、現在の圧倒的なゲシュテル(科学技術の本能のようなもの)の力を乗り越えることは難しい。科学的知性自身がこの最後の神の到来の合図に気づかないといけない。
 
合図に気づくとは―
空間を二重化させること。自らが脱去しつつ、自らを贈り届けるというかたちで虚的なものと実的なものが双対で協働している存在自身の空間を切り開くこと。
  
それがヌーソロジーが言っている「複素空間認識」の意義なんだよね。
  
オルフェウスは宇宙の万物の中にとどまり、そこから今もなお歌ってる。その歌声に耳を済まそう。それは持続空間に住む、まだ見ぬ永遠の我と汝のハーモニーと言っていいもの。

オルフェウス