洞窟の中の囚人たち

外なる事物も他者なるものも、私が見ることによって存在しているわけじゃない。本当はまったく逆で、他者に見られることによって私が登場し、その後で、物なり経験的な他者が私の意味づけの中に登場してきている。受動性が外在感覚を作っているということ。まずはその感覚を蘇らせないといけない。

となれば、その謎めいた他者に見られる前の私とは何者かということになる。そこに内在性が息づいているのであり、それを目覚めさせることが、自覚ということになる。
時空と素粒子の関係とはまさに、ここでいう外在感覚と内在性の関係にある。

他者構造によって存在(内在性)が尽く引き抜かれ、世界が存在者による単なる「ある」の世界になっているのが今の世界だ。この「ある」の世界は内在に方向を持つ「いる」が働いていなければ、実は無も同然の世界と言っていいだろう。というのも、この「いる」の土台にすべての存在者を生み出す「なる」の方向が控えているからだ。

この「いる」の土台こそが、ヌーソロジーの文脈から言えば、素粒子であることは言うまでもない。「純粋な前(奥行き)は素粒子の内部である」とはそういう意味だ。だからこそ、世界は素粒子から「なる(生成する)」という物語を今現在、形作っているのである。
存在論の問題提起を今一度思い出そう。

「なぜ一体、存在者があるのか、そして、むしろ無があるのではないのか?」-M・ハイデガー