物理学とは本来、内在性の学問です

光の空間構造を考えると、光はそれ自身の中に持続を持ち合わせています。つまり、光は私たちに決して物の一面だけを見せているわけではないということです。光は対象全体を包み込んでいると同時に、また対象の周囲に空間を繰り広げてもいて、それを意識に保持させている、そのような存在です。
自己が見る光と、他者が見る光は、普通、同じものと考えられていますが、全くの別物だと考えた方がいいでしょう。物理学で電磁場と電磁ポテンシャルと呼ばれているものがそれらに当たります。光自身も双子として生きているということです。

意識が存在という差異を挟んで反復している、というのはドゥルーズという哲学者の考え方ですが、光自体がこうした差異と反復の産物です。
光はヌーソロジーでいう〈思形〉と〈感性〉の間を、物(元止揚)という差異を挟んで反復しています。つまり、言い換えるなら、物の外部での意識活動を支配しているのが光だということです。その意味で、時空の中を光が直進しているというよりも、光が人間に時空という意識を与えていると言った方が妥当です。

光は物理学的には磁場の振動と電場の振動を併せ持っています。磁場とは感性空間の対化です。感性空間とは知覚空間のことで、これは持続に方向を持っています。物理学の実験で、粒子に外部から磁場を与えたとき、スピンがその磁場と同じ方向に向きを揃えようとするのもそのためでしょう。 このときのスピンが、人間の意識における内的持続の位置にあたります。

一方、電場とは思形空間の対化です。これは、〈人間の内面〉としての時空の意味とほとんど同じです。対化とは自己と他者、それぞれが意識している時空という意味です。これらは電場のプラスとマイナスのように互いに反転しています。
ゴタゴタと小難しいことを話していますが、何が言いたいのかというと、物理現象は外にあるものではないということですね。そもそも外などどこにもないということ。すべてが内で起こっているということです。いや、内が起こしている。
その意味で、物理学は本来、内在性の学問だと考えないといけません。観測者を持続として空間の中に参与させれば、当然、現在の物理学にもそのような知的変容が起こってくるはずです。

まとめておきましょう。

電磁場とは繰り広げにおける内包性を挟んでの意識の反復。つまりは、人間の意識場である。存在における終わりと始まりが混交している場とも言える。光とは有機体。有機体とはカタチのない精神-OCOT情報

OCOTの言葉で補足しておくなら、存在は”カタチ”の中で活動しています。それが、存在の外としての光の場では物質として現れるということです。その原初の鋳型が、量子物理の中に見られるSU(2)で示される空間構造に現れています。
二つ(自己側と他者側)のSU(2)が混じり合うとき、存在の母胎が顔を表してきます。それがヌーソロジーが「人間の元止揚」と呼んでいるものだと考えてください。
人間を存在の中へと溶け込ませていく思考を作らないといけません。存在の開き(アレーテイア=真理)はそのようにしてやってきます。