3月 15 2008
太陽と月に背いて(5)
●有機的なものから無機的なものへの侵入
物質的なものを巡る科学的思考と霊的なものを巡る宗教的思考。シリウスとはこれら両者を一つのものの表と裏として見なすことのできる知性が存在している領域です。理性的な思考と感性的な思考の断裂の狭間にそれらをつなぐ純粋思考を持った天使世界が存在しています。この天使たちが思考対象としているものがヌース理論でいうところの「観察子」という概念だと考えていいと思います。ここはダイナミックに生死を繰り返す有機体の世界を卒業して、創造に着手する無機物の場所でもありますから、ある意味鉱物的な世界、つまり、幾何学的な世界となります。パワーストーンに秘められたあの不思議な力は、シリウスに居住するこうした知的精神体によってもたらされているもののようです。
コ : 古代人が共通して巨石文明を持っていたのはなぜですか?
オ : 石には何か別の次元が関与できたのではないかと思います。石には人間の意識を(進化の)方向に関与させる調整質が含まれています。それ(その調整)を行うためにやった(巨石を使った)のです。石とは力の方向性(精神のカタチが存在する場所への方向性)の対化。
この鉱物的な知性が観察子と深く関係しています。ヌース理論でいう観察子とは無意識構造を象(かたど)っている空間のカタチのことを意味しますが、このカタチは人間の意識に捉えられている物質的な表象や心的な表象とは一切無縁のものです。つまり、この純粋思考においては、理性が作り出した容器図式にもとづく論理も、その反動として動いている情動的な生産物も、一切立ち入ることはできません(スピノザという哲学者が言った「第三種の認識」に似ています)。なぜなら、この純粋思考というのは、理性や感情を人間の意識に提供している無意識の機構そのものだからです。分りやすく言えば、人間が持った様々な意識の様態が種々のアプリケーションだとすれば、それらを動かしているOSと言えばいいのでしょうか。いや、この純粋思考への移行は、もっと言えば、人間の意識自体を動かしているOS自体を全く違うOSに入れ替える作業と言っていいのかもしれません。多くの人にヌース理論が難しいと感じられる所以は、この異質性にあります。
確かに日常的な思考からヌース的思考への切り替えは厄介な作業なのですが、僕の拙い経験から言って、このOSの切り替えには一つのコツがあります。それは一言で言えば「時計的な時間を無視しちゃえば?」ということです。とにかく時計的な時間などは存在してない、と言う立ち位置から自分を取り巻く世界について思考の再構成を試みることです。ヌースの世界観から見ると、時計的な時間は深淵です。ここは無底、つまり底がありません。思考が時間にトラップされてしまうと、思考は空間に直線という迷路を生み出し、思考を悪無限の中に放り込むことになるわけです。この宇宙はいつ始まったのか、この宇宙はいつ終わるのか、宇宙に果てはあるのか、人間は死んだらどうなるなのかetc。。こうした疑問は、問い立ての仕方自体が時間の罠に引っかかっているために、どのようなロジックを持ってこようとも決して答えが出てくることはありません。だから、ここは「時間など存在しない」という思い切った跳躍が必要なのです。時間が導入された世界には3次元空間という深い闇がパックリと口を開けて、人間の意識をカオスの中に呑み込んでいます。もちろん、このカオスは「悪」ではありません。むしろこのカオスがなければ宇宙は生命(生物)を生み出すことはなかったと言えます。生命とは光と闇の混合の上でしか成立しないからです。
●時空=自我=炭素
いずれヌース理論の中でもはっきりと示すことができると思いますが、人間が作り出しているこの4次元時空という概念こそが生命生成の本質力となるものです。そして、生命生成におけるカオスの基盤に横たわっているのが想像的自我という人間の意識のセンターとなっているものなのです。この想像的自我を象っている空間構造は、素粒子次元ではニュートリノ、元素次元では炭素、などと深い関係を持って存在させられています。
つまり、ヌース理論でいう覚醒意識(顕在化)から見ると、炭素という元素、3次元空間認識を作り出す時間概念、そして想像的自我のカタチはすべて同じもののように見えるということです(ちなみにこのカタチは「止核精神」と呼ばれ、幾何形状としては正四面体です)。2冊目の著書『シリウス革命』で、植物とは人間の思考が物質化したもの、動物とは人間の感情が物質化したものと書きましたが、物質的に見て、生命体の根本に炭素という元素が重要な役割を果たしているのも、炭素が自我が持った空間構造の物質的射影だからと考えて下さい。
おいおい、半田、飛ばすのは止めろ。時間がないと言ったって現にあるじゃないか。
そんな声が聞こえてきそうですが(^^)、時間感覚をマヒさせていくためには、ただ時間などない、と決めてかかるだけでは無理です。時間とは無意識の構造が提供している一種の霊力ですから、時間感覚を希薄にするためには時間がどこで生成されてくるのか、まずはその場所を見つけ出し、その生成機構をありありと目撃する必要があります。この時間の生産機構を見ている場所は時間がない世界となります。つまり、次のようなことです。
時間がない世界において世界がどのようになっているのか、その具体的なランドスケープを感覚化するための知覚能力とそれらを一つの世界イメージとして結ぶ概念力を意識に作り出せばいいのです。いくら時間がないないと心で思ってみても、どうしても時間があるように感じてしまうのは、僕ら人間の意識が時間概念のない世界における具体的な大地や都市や交通網や、そこで行なわれている経済活動をイメージできていないからにすぎません。そこには一体どういう人々が居住しており、そこでは一体何が交換され、そこで一体どのような会話が交わされているのか、こうした非日常的日常というか、日常的非日常の様子がありありとした情景として見えてくれば、もはや時間という神霊は僕らのもとから立ち去っていきます。いや、正確に言えば、時間がある世界と時間がない世界を自由に行き来できる意識形態が作り出されてくるということです。こうした意識形態を持ったニュータイプたちがヌース理論でいうところの「トランスフォーマー(変換人)」という存在です。これは言い換えれば、意識進化へと一歩踏み出した次元両性類としての人間と言えます。この新しいタイプの人間は、下半身は今まで通り水(3次元空間)の中を彷徨う魚の姿をしていますが、上半身は光に満ちた大気の空間に出て肺呼吸ができる生き物たちです。古代バビロニアの伝説にあるあのオアンネスも、ドゴン伝説に登場してくるシリウスから飛来した両生類的生き物と言われているあのノンモも、ヌース理論から見れば、こうした3次元世界と4次元以上の高次元空間を行き来できるトランスフォーマーの異名にすぎません。そして、連中はかつてこの地球上に存在していたのです。。。いや、ずっと、存在し続けている。。。
次回は時間概念を脆弱化させていくためのいくつかの空間概念について話してみようと思います。——つづく





10月 19 2010
スピノザと量子世界
先週の日曜日、久々に書店へ。そこで「スピノザと表現の問題」(ドゥルーズ)をゲット。以前から気になっていた本だ。パラパラとページをめくってみる。「差異と反復」よりは読み易い。スピノザの思考自体が僕の好みだからだろう。
スピノザはレンズ磨きの職人でもあった。ポルトガルからユダヤ教徒としてオランダに移住してきた両親のもとで育った。彼自身はユダヤ教の神にもキリスト教の神にもなじめず、一人孤独に自分自身の神を求めた。そんなスピノザにとってレンズとは自分自身の理性の目の象徴だったに違いない。レンズは視力を矯正する道具だが、スピノザが取った哲学に対する幾何学的方法論もまた人間の精神を光学的に矯正しようとするレンズ磨き的なアプローチだったと言える。
スピノザは、観念の秩序や連結は物の秩序や連結と同じである、と言う。というのも、結果についての認識は原因についての認識に依存しているがゆえに、その原因の認識をも含みもって成り立っている必要があるからだ。僕らが見ている世界とは言うまでもなく結果である。この結果としての世界には神の所作(創造)という原因がある。だから、人間が行うあらゆる認識は神の認識に依存している。しかし、人間の認識は神の認識を棚上げにし、人間の認識に基づき理性を働かせている。認識における半分がまるまる欠落しているのだ。
このようなスピノザの思考手順を考慮した場合、事物のほんとうの認識に到達するためには、事物の創造を引き起こしたところの認識に出なくてはならないことになる。こうして認識を突き詰める思考は必然的に神の思考領域へと誘われる運命を持っており、最終的にはスピノザ的な存在論にたどり着く。
こうした存在論をもとに、スピノザは認識を以下のような三つの種類にカテゴライズした。
第一種の認識——記号、または感覚に基づく認識
第二種の認識——「共通概念」に基づく理性的認識
第三種の認識——第二種の認識からのみ生じる直感知
スピノザがいう事物の真の認識とは当然のことながら、ここに挙げた第三種の認識によって行われるものである。第三種の認識のみが事物のほんとうを言い当てる。そして、事物のほんとうを言い当てられたときは、それは事物の創造の現場に立脚した生成の流れでなければならない。そこで事物は始めてスピノザの言う実体となり得るのだ。
さて、以上のようなスピノザの論法に立って、現在の科学的思考が物質を認識している態度を見てみよう。科学的認識は典型的な第二種の認識だと言える。公理という前提を立て、そこに万人に共通する概念のネットワークを設け、物の秩序や連結を事細かにその約束事のもとで記述する。この記述の積み重ねを通して、科学的思考においては物質生成の根本的原因は物理世界を支配する4つの力へと還元された——ただ、ここに大きな問題が露呈してきた。現代科学が量子的レベルで「物質の秩序と連結」といったとき、それはもう表象のレベルではその像を結ぶことができないような世界なのだ。つまり、物質の最下層を支えている量子という存在はもはや物質と呼べるような代物ではなく、物質的表象では把握することのできない何者かへとその存在の様式を変化させてしまっている(不確定性原理では位置と運動量、エネルギーと時間等を同時に測定することはできないとされること等)。
OCOT情報では、こうした表象不能となった量子の出現を人間による「認識の完全化」が起こる前触れと見なしている。これはスピノザの言葉を使えば、量子世界は第三種の認識を持ってしか把握できない、もしくは、第三種の認識の様態こそが量子世界の本質であるということを示唆しているのではないか。電子銃から発射された一個の電子が、複数のスリットを同時にすり抜け、スクリーン上にはまた一個の電子となってその跡を残す,等々——・まるで亡霊のような振る舞いを見せる量子。しかし、第三種の認識にとってはこうした量子の挙動は当たり前のことのように把握されるはずだ。
スピノザは第三種の認識は永遠の相の下に行われるという。
——永遠の相においての対象は事物ではなく観念である。観念は個物を説明するのではなく、すべてのものに共通するものを説明するがゆえに、それは時間とは何の関係も持たず、永遠の相の下において考えられなければならない(エチカ)。
たとえば、電子を事物の位置を規定する観念の力そのものと考えてみよう。当然のことながら、事物のあらゆる位置は一つの位置という観念によって規定されている。となれば、観念は常に一つであるがゆえに、一個の電子の位置はときとして二個の穴の位置、いや無限数の穴の位置への変身であっても一向に構わず、また、それが到達点の位置としてスクリーン上へと達したときは素知らぬ顔である特定の位置を把握するための観念として一個に収束してしまっても何の不思議もない。つまり、観念がそのまま実在とリンクしているところ、それが量子的世界なのではないかということだ。その意味で言えば、量子的世界とは時間の中に永遠の相が顔を出している部分だとも言えるのかもしれない。「最も抽象的なものこそが最も具体的なものなのである」と言ったハイデガーの弁は、まさに物質において成り立つ。
ここでの量子のイメージをさらに突き詰めるならば、世界の原因の認識(はじまり)と結果の認識(おわり)との接触が量子力学という事件として起こっている、という言い方もできるだろう。もし、そうならば、量子をスピノザの言葉で言うところの所産的自然と見なすことは御法度である。量子は作り出されたものではなく、作り出すもの、つまり、創造のためのアプリケーションと見なす必要が出てくるからだ。そして、事実、量子のみが延長において人間の思惟(観測者)とのインターアクションを持っている。思惟と延長とが作る平行線が交わるところ。これはスピノザの定義に従えば実体にほかならない。つまり、量子とは能産的自然の世界への扉として再解釈されなければならないのだ。
この時代にスピノザを召還する者は、スピノザの精神に倣って、量子を見るための光学的方法を設計しなければならない。それは4次元を大地とする場所に降り注ぐ光の生態学であり、一切の個物に関する知識を捨て去った無時間の学と呼んでいいものである。物質と精神はそこで初めて第三の実体としての神の思考へと変貌することができる。そこにおいて、僕らはスピノザが垣間みていた宇宙的倫理の意味を初めて理解することが可能になるだろう。それは共同体の指標を喪失してしまった現在の僕らこそが最も必要としているものなのではないか。。
By kohsen • 01_ヌーソロジー, 06_書籍・雑誌 • 0 • Tags: スピノザ, ドゥルーズ, ハイデガー, ユダヤ, 差異と反復, 量子力学