6月 22 2006
ミクロとマクロの対称性
出張等が重なり、間を空けてしまった。。。
ヌース理論が描き出そうとしている世界イメージは、現在の常識からすれば狂気に近い。それは尺度概念に支配された公理系の体制を全否定するからである。物質的世界の中に限れば、それらはことごとく真理に近いと言える。しかし、宇宙自体、存在自体の成り立ちに、こうした科学主義の成果を全面的に適用することはどう考えても暴力的すぎる。特にマクロ宇宙の姿は、科学主義によってことごとく歪められていると感じてしまう。ビッグバン理論を初め、銀河系に対する解釈、太陽系の生成プロセス。。確かに、観測データを持って実証主義的に宇宙のナゾを解明していくという姿勢は理解できるが、それらは単に見えているものの物質的解析にすぎず、そこに内包された意味を掘り下げなければ、真の宇宙像が見えてくることはないだろう。
ヌースが提示する、もっともささやかなる狂気。それは、物質の大本が成り立っている現場は、人間の知覚野の構造にある、というものである。素粒子とは知覚野を原点とした無意識構造のシステムが3次元空間に射影されたものなのだ。こうした世界観を当たり前のものとするために、まず着手しなければならないのは、ミクロとマクロの等化である。3次元性が極限にまで巨大なものとなったとき、それは、微粒子へと速やかに変身する——意識が外部性の極地まで達したとき、そこから、一転、軽やかに内部性へと滑り込む。終わりの光を始まりの光へと変えること。こうした反転への身振りが、ヌース的思考には必要不可欠なのだ。
分かりやすく話すと、君の周囲を覆っている広大なる天球面。実は、それは他者が見ている点の内壁である。ということになるだろうか。
あそこにヤツが立っている。ヤツはたぶん自分の周囲に広大な宇宙の広がりを認識していることだろう。しかし、それはすべてヤツが立っている一点に映し出されている映像にすぎない。オレから見れば、それは確かにヤツがいる一点の中にある。それと同じ事が、ヤツの立場からも言えるだろう。ヤツが見ている一点の中にオレが感じているこの宇宙はスッポリと入り込んでいる。。。鏡像反転とは左右の反転などといった慎ましやかな反転ではなく、実際には4次元の反転、内部と外部の反転である。点の内部世界と外部世界の相互反転性。この4値的なキアスムが見える世界が「ヒト」の世界である。聖霊たちのオイコノミアの空間だ。しかし、無意識はそこを超えてさらなる領域へと等化を進めてしまった。それが内部=内部*、外部=外部*という2値的なオイディプス空間である。外部と外部*が同一視されてしまえば、当然、その代償として内部世界も同一視される。同じ天球面を共有し、同じモノを見ているような気分にさせられる。ヒトの上位に出現した2値化へのイデアによって、4値化のイデアは深い水の中へと沈み込む。自分自身に実際に見えている世界にもかかわらず、だ。その沈み込んだ天使的領域が素粒子世界の本質なのだ。しつこいようだが、何度でも言わせてもらおう。目の前の現実を見失った盲目のオイディプスたちよ、なぜ、目を開かない。そこに見える天球面が本当の君なのだ。
ミクロとマクロの対称性。この対称性を思考の中で達成できれば、尺度体制の崩壊を僕らの世界認識にもたらしてくることだろう。精神を含めた宇宙存在は大きさなどで語り尽くせるものではない。宇宙構造を語るに最も適している言語はおそらく幾何学である。それもトポロジーならば尚更、都合がいい。場所(トポス)の学(ロジック)としてのトポロジカルな宇宙理論。それのみが、宇宙構造を明らかにできる唯一の道具なのだ。神は宇宙を創造する際にトポロジーとしての幾何学を用いている。定規とコンパス。直交性と円環性。そこに建築の本質がある。
ヌース的世界観の追い風になるかどうかはまだ未知数だが、最近、超ヒモ理論の中にもT双対性という興味深い対称性が登場してきている。この対称性は僕もよく理解できていないので、詳しくは紹介できないが、ひもとひもとが相互作用するときの結合定数というのがあって、その結合定数を表す関数がrと1/rの間に対称性を持っているというものだ(r=宇宙の半径)。これはミクロとマクロの対称性と言い換えて差し支えない。現時点では、このT双対性とヌースが語る「ミクロとマクロの等化」がどう関係を持っているかはよく分からない。ヌースで3次元でのミクロ=マクロが成立してくるのは、ψ3(モノの外部方向に広がる空間)とψ4(モノの内部方向に縮まって行く空間)の等化の部分、つまり、ψ5の顕在化によってである。で、この対称性の本質は実は極めてシンプルなもので、おそらく次のような内容を指している。
モノから遠く離れれば離れるほどモノは小さくなる。逆に近づけば近づくほどモノは大きくなる。ここでのモノの外部性と内部性の関係は、rと1/rの関係性にどことなく似てはいないだろうか。二人でキャッチボールをしているときのボールの見かけの大きさを想像してみるといい。自他が入れ変われば、ボールの内部性と外部性の見えの大きさの関係は反転し、対称性が成立する。。
「太陽の都」を書いたトマス・カンパネラは「将来、魂は無限大の球体となるだろう」と予言した。無限大の球体とは君が見ている宇宙そのもののことである。ヌース的文脈では、それはモナドとして、密かに物質の奥底に入り込んでいる。科学的な言い方をすれば、それは、唯一「存在確率1」として、指し示すことのできる電子の姿のことでもある。つまり、無限大と無限小は4次元の秘密の通路を通して直結しているのだ。空間の真の深さを知ること。そして、その深さに沿って、空間を根底からスコップで穿り返す事。そうすれば、僕らの本当の居住しているトポスが見えてくる。そこは、もう「太陽の都」のファサードと言っていい場所だ。双子のヤヌス神が出迎えてくれることだろう。
7月 5 2006
元素界への突入
ヌース理論では素粒子世界は潜在化したイデアと考える。潜在化したイデアは人間の無意識構造を形作っており、この無意識構造があるから、僕らは意識を働かせることができる。人間の意識進化とは、この潜在化していたイデアが、顕在化を行うことである。だから、それは人間の意識に素粒子が見えるようになることを意味する。このへんは何度も言っている通りだ。しかし、素粒子が見えるようになったときは、それは素粒子ではないとも言える。潜在化したイデアが素粒子なのだから、当然、顕在化したイデアは素粒子には対応していないということだ。では、それは何か——。
原子である。たとえば、ψ6という観察子は潜在化においては、ニュートリノ、もしくは局所時空に対応するが、「あっ、ニュートリノとは局所時空と呼んでいたものだったんだ。へぇ〜。」と言うように、ψ6の概念がそう納得して見えてきたとき、そのψ6はもはやニュートリノではなく、原子番号6番の炭素となっている、ということだ。顕在化したイデアを持った意識にとっては、局所時空=炭素というとんでもないロジックが当たり前のように成り立つ。何で………?と訝しがる声が轟々と響いてくるのが聞こえるが、ここはチビチビ行こう。ここは、こういう考え方をしてみてほしい。
客観的モノが成立する条件をヌースではトポロジカルに考える。主観としてしか把握できないモノが、どうして客観にまで育ち上がるのか。いや、そもそも主観は,客観(世界)の部分的な切り取りという意味において、世界からしか派生し得ない。しかし、最初にあるこの客観とされる世界は、客観というよりはむしろモノ自体としか呼びようのない世界である。何と気味の悪い話か——これはカント以来、哲学が抱いてきた最重要課題の一つと言っていいものだ。
当然、この主観-客観のグルグルルートは無意識構造が人間に強いている業(カルマ)の一つなのだが、ヌースは、そこで、このカルマの構造に、群論でいうところのSU(2)対称性のカタチが暗躍しているということを主張している。つまり、僕らの意識に客観的なモノという認識が現れてくるためには、複素2次元空間における回転対称性がないと無理だ、と言っているわけだ。はじめにSU(2)ありき。SU(2)は光とともにありき。SU(2)は光の命であった。ということにでもなろうか。。だから、3次元空間でただモノが廻っていても、それは客観ではなく主観的なモノの回転にすぎない。事実、ここで起こっているモノ自体と知覚の分裂に、やれモノが先だの、いや、観念が先だのと言って、哲学者たちが長年の間、論争を続けているのである。
SU(2)が3次元球面と同型であることから考えて、SU(2)対称性とは4次元空間上の3次元球面の回転対称性に相当するだろう。1次元球面(円環)が3次元方向に回転して2次元球面ができるように、3次元球面は2次元球面が4次元方向に回転して生まれるものと想像て゜きる。4次元の回転とは、意識の他者の視線への移動ではないか、という話はもう何回もしてきた。ここから見たリンゴ、あいつから見たリンゴ、彼女からみたリンゴ………こうした主観的イマージュが折り重なって「客観的なリンゴが存在する」という確信が成り立っているのは心理的にもごく自然に納得がいくところだ。
素粒子でいうとSU(2)対称性はアイソスピン対称性が成立している空間である。アイソスピンというのは電子のスピンがもう一回り大きくなったようなスピンで、三つの直交するスピンでアイソスピン対称性を構成している(二つの直交が弱アイソスピン対称性)。アイソスピンにも同じようにプラス1/2とマイナス1/2というのがあって、これらはそれぞれ陽子と中性子のスピンに対応させられており、アイソスピン対称性はそれらの区別がつかない核子の状態を意味する。ヌースは陽子を客観的モノのイデア、中性子を客観的時空のイデアにそれぞれ対応させているので、正確に言えば、これらは弱アイソスピン対称性と言った方が適切かもしれない。(以前話した人類総体の「前」と「後ろ」の関係を思い出してほしい)。
さて、客観的モノ、客観的モノと執拗に連呼してきたが、このモノは必ずも実際のモノである必要はない。客観的事物として見なされるもの、例えば、目の前の空間を指差して、ここを点Aとしよう、と言ったときの点Aでも構わない。つまり、モノを無限に縮めていったものでも、それは無限に縮まったモノであるから、モノに変わりはない。要は、モノの存在を概念として考えてみようと言ってるわけだ。するとモノ概念が存在するためにそこには最低、以下の三つの要素が必要となってくることが分かる。
1………客観的な位置概念(点)
2………客観的な空間概念(時空)
3………それを見ている主体概念(知覚球面)
実を言うと、この三位一体概念が僕らが重水素と呼んでいるものである(水素原子には内面(客観的な時空概念)がない)。つまり、客観的な時空の中に客観的な点を措定し、それが主観的なものへとズレて認識されているという状況。これが第一の原子の実体なのだ。これは、知覚球面を反環と見た場合の円心と反環の関係に当たる。円心が陽子と中性子、反環が電子である。その意味で言えば、原子に見られる核子と電子の円心関係は、円心と反環を対化に持つ次元と言えるだろう(これが「ヒト」だ)。僕らが見ている重水素原子とは、おそらく、それら三位一体のイデアの構図が、4次元のルートを通って射影され、縮んで見えているだけなのである。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 3 • Tags: イマージュ, カント, ニュートリノ, 円心, 素粒子