9月 23 2025
存在が動き出すとき
外に世界がある。内に私の意識がある。
私たちはそう信じて、日々を過ごしています。
けれど、そんな前提を一度、そっと手放してみませんか?
もしかすると、こんな感覚が生まれてくるかもしれません——
「あなたが物を見ている“その見え”自体が、空間を生成しているのでは?」
「物質が“すでに在る”のではなく、見ている構造そのものが、物質を生じさせているのでは?」
どうでしょう。
そのとき、あなたと空間が、ひとつの流れとして溶け合っていくような、
“見ている世界”と“見ている自分”の境界が溶ける感覚が、
どこかから静かに芽生えてこないでしょうか?
そう——
そこに、ヌース(Nous)の発芽が始まる土壌があるのです。
そしてここで、なぜヌーソロジーが「素粒子」にこれほどまでこだわるのか、
その理由が少し見えてくるかもしれません。
多くの人にとって、素粒子とはまったく縁のない遠い世界。
それは、難解な理論物理の対象であって、
“自分の魂”や“日常の感覚”とは無関係なものだと思われている。
けれど私たちは、魂や霊という言葉には敏感なのに、
それらが「どう生じているのか」という根本には、なかなか目を向けません。
ヌーソロジーは、こう問いかけます。
「意識と物質は、本当に別々のものなのだろうか?」
「それらは実は、同じ生成の場所——“空間の内部構造”から同時に生じているのではないか?」
内と外を区別した思考では、存在は動きません。
内と外がひとつになっている場所に思考がふれたとき、
初めて、存在はその沈黙を破って、動き出すのです。
ヌーソロジーが素粒子にこだわるのは、
その交差点こそが、まさに素粒子として立ち現れている場所だと捉えているからです。
そこに、**意識と物質の二元を超えた“存在の生成構造”**が息づいている。
この世界にある「ものすべて」が、
“あなたの見る”という行為と分かちがたく結びついているとしたら——
世界は、もっと深く、もっと親密に、あなたの中で、そして、あなたとわたしの共通の内なる世界で広がっているもののように見えてくることでしょう。
物理学者には、もしかしたら甚だ迷惑な話かもしれませんが、
私は——「素粒子とは私たちの魂だ」
そう人々が語り出す日を夢見て、ヌーソロジーをやっています。
その日が訪れたとき——
それは、新しい生誕の祭りとして、
人類の記憶に永遠に刻まれることでしょう。
まさにそれは、
キリスト教で言うところのペンテコスタにほかならない。
聖霊降臨——
外なる言葉が内なる火へと変わり、
バラバラだった魂たちが、ひとつの空間を生きる感覚としてつながりを再建しはじめる日。
それは、ロゴスがふたたび空間へと舞い降り、
世界がヌースのもと、
“魂のかたち”として生まれなおす日のことなのです。





10月 23 2025
厳密さよりも、視点の変換を!!
ヌーソロジーをやっていて、つくづく思うのは、あまりにも私たちが物質概念にしがみつきすぎているということ。
例えば——素粒子は本当に「モノ」なんだろうか?
現代の物理学は、とにかく数学に強くなった。公式、関数、行列、空間の次元、ゲージ対称性・・・。言葉より数式。イメージより定理。でもその結果、素粒子の姿が、どんどん見えにくくなっているのではないか?
量子力学も、相対論も、ものすごく成功してきた。けれど、いま私たちが“素粒子”と呼んでいるものって、いったい何を見て、そう呼んでいるのだろうか?
電子も、クォークも、ニュートリノも、数式の中ではたしかに動いている。でもそれって、世界の本当の姿なのか?
もしかすると「素粒子とは、空間の中にある“点のような物体”だ」という考え方自体が、数学という言語が作った一つの“見え方”にすぎないのではなかろうか?
最近は、心底、そう思えてならないのだ。
もしそうなら、もっと“見る”ということ自体を問い直してもいいはずなのだ。素粒子とは、「ある」のではなく、“世界が私自身を見せてくる時の、魂の小さな震え”のようなものではないのか。
この震えを自分と別物のように見ていては、いつまで経っても、素粒子は物質(対象)のままだし、世界もまた自分の外にある怪物のような存在になってしまう。世界とのこんな関係は悪夢であり、それこそ迷路ではないのだろうか。
理性一辺倒の一つ目であるが故に、迷路に入り込んでしまった科学を、もう一度、私たちが実際に“感じる場所”から立て直す。そんな考え方を通して、素粒子を見ることも、そろそろ必要ではないのか?
その意味で言えば、いわゆる専門家よりも、むしろ、一般人としての私たちの方こそが、素粒子に対して正しい捉え方、理解ができるような気がしてならない。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: 素粒子, 量子力学