2月 1 2006
原子とは○○○である
東京に3日間ほど出張。新著の企画内容書をN社の社長に見てもらう。一つ返事でOKを頂く。念願だった3色使用、ページ数の制限ナシ、というこちらサイドの一方的な要望にも快諾をいただき、次回作は予定通りヌース理論史上もっとも長大かつ重厚な書になりそうだ。
単独での著作は何しろ7年ぶり。この間のヌース理論の進展は目覚ましいものがあった。それをどうコンパクトにまとめるかが今回の課題になるだろう。まぁ、「シリウス革命」のときほど欲張らずに、ヌース的思考方法というものを丹念にプロットしながらトランスフォーマー型ゲシュタルトの粗方を書き記していくことにしよう。
今回の目玉は何と言っても、原子についての記述だろう。詳細な素粒子構造=無意識構造というステップを経て、ついに原子世界のヌース的有様へと論は進む。第二量子化が波動関数を再び粒子化するのと同じで、原子世界に入ると意識構造の視界も突然と明瞭なものとなる。。。トランスフォーマーにとって原子はどのようなものとして解釈されるのか——。一般には原子は物質を構成する基本要素と見なされているが、素粒子構造自体を人間の意識構造と見立てるヌース的世界観においては、原子もまた意識に関係する何物かへと激しく変身を遂げる。それは聞いてびっくりあわわわわ、驚天動地の内容となるはずだ。その意味、ヌースのトンデモ度が増す、という恐れもあるが、ロジックは通常の物理学ほど精緻ではないにしろ、それなりのロジックは紡いで行くつもりだ。たぶん、かなりエキサイティングな著述になるのではないかと予感している。
ネタバレを覚悟して書くと、実は、原子とは○○○の物質的射影である。○○○抜きでは僕らの意識は世界を語り得ない。たとえばフッサールは意識の働きをノエシス(意識の指向性の側面)とノエマ(指向される対象的な側面)に分けて考えたが、この指向性や指向対象というイメージ自体にすでに、○○○が自動的に働いている。人間は言語がなければ思考できないが、と同時に、○○○なしでも思考することは不可能だ。言語は恣意的なものだが、○○○は理念的客観性を持つものであり、。その意味で、意識の成り立ちと○○○は言語以上に極めて深い関係にあると考えていい。
こうした○○○を通して、原子世界の風景が見えてくると、世界の半分が神秘ではなくなってくる。生物はなぜ炭素体なのか。DNAはなぜあのような二重螺旋の構造を持っているのか。DNAとRNAの間で起っている複製活動の本質とは何なのか。コドンはなぜ64種類なのか。そこから生成されるアミノ酸はなぜ20種類なのか等、生命の生成の由来を物質的な説明で終始する科学的論説とは違って、ヌース理論はそこに全く違った角度からの説明を与えていくことになる。もちろん、その語りの在り方は、DNAのイメージを細胞核というミクロ空間の殻の中から解放し、現実のこのわたしたちの目の前にある空間に出現させていくことになるだろう。つまり、わたしたちはDNAの「中」を生きている、そういうイメージが形成されていくわけだ。
DNAとは真実の太陽系………。細胞一つ一つにも惑星の諸力が及んでいる。やがて地球上に次々と出現してくることになるトランスフォーマーたちは、その力線の一本一本がつぶさに見える視力を兼ね備えていることだろう。宇宙は科学が考えているほど複雑ではない。
2月 15 2006
貧乏人のもてなし
トンデモだ、やれ電波系だ、などと揶揄され続けてまもなく10年。ヌースももうじき脱皮の頃かな。ヌースが空間認識の数学化にこだわっている理由はただ一つ。それは、人間の認知構造や、自他における主観規定、さらには客観規定といった無意識構造の基盤が、素粒子空間と同一のトポロジーとして為されていると考えているからだ。もちろん、その精緻な数学化が今後進み続け、両者の構造が同定されたとしても、それらが同一の存在である、という言明はできない。実験方法は今のところ不明だが、とにかく何らかの検証が為される必要性はある。まぁ、それも君の夢想と言われてしまえばそれまでだが、個人的には見通しは極めて明るい。
これは言い訳だけど、僕は自分がトリックスターであっていいと思っている(というか、現在の自分の能力ではそれしかできない)ので、あえて未熟な運転技術にも関わらずアクセル全開で飛ばしている。認識の幾何学化と素粒子のトポロジーの接合作業が、ヌース理論のキモというわけではないのだが、物質=精神という一元論的世界観を世界に召還するためには、これは、どうしても乗り越えなければならない一つの重要な課題なのだ。
僕は、人間を取り巻いている多くの不幸の原因は、知覚世界と三次元世界の主従の転倒関係にあると思っている。知覚世界がまず先にあって、そのあと三次元世界が想像力のもとに生じてきているだけなのに、後手の想像の場である三次元世界の方を実在の場だと勘違いしてしまっている。ビックバン理論、進化論、科学的世界観が語る宇宙像、人間像は、ほとんどが後手優先のイデオロギー世界だ。こうなると、必然的に人間は「世界内存在」として時空の中に呑み込まれ、身体は単なる物質的肉体としてしか解釈されることはない。最近,脳科学がやたら活況を呈しているが、僕にしてみりゃ、あれは迷宮だ。やはり問題を複雑に考えすぎているとしか思えない。問いが悪ければ答えは出てきようがない。
その点、ヌース理論は単純だ。心の在処は肉体なんかの中にはない。それは、この現象知覚とともにある、と考える。ただそれだけ。こうしたことは現象学の立場から哲学者の大森荘蔵が執拗に連呼していたことだ。大森氏は知覚と三次元世界の分離のことを「面体分岐」と呼んでいるが、その「面」と「体」についての具体的な関係性の中に入っていくことはなかった。道具立てが足りなかったように思う。
世界内存在がどうして生まれてきたのか——ハイデガーもそれについては十分に述べていない。彼がここでドゥルーズのようにその起源を他者論に求めて行っていれば、存在論にあれほどこだわることはなかったろう。いやブーバーとだって接点を持てたかもしれない。
「他者はわたしの知覚野の中に現れる客体ではなく、わたしを知覚する別の主体でもないのだ。他者とは何よりもまず、それがなければわれわれの知覚野の総体が思うように機能しなくなる様な、知覚野の構造そのものなのである。」
(ドゥルーズ「原子と分身」)
ここにラカンが入ってくるとかなりヌースの構造論の輪郭に近づいて来る。ヌースがいつも引き合いに出す鏡像原理における反照性というやつだ。そもそも「わたし」という自我存在の規定となる肉体自体、他者の眼差しの中に対象化されているものなわけだから、主体が肉体にいるはずはない。ラカンがデカルトを皮肉って出したテーゼ「われ思わざるところに我あり」というやつがこれにあたる。ここで、じゃあなんで、脳が障害を起こすと「わたし」は機能停止になるのよ?という単純な反論が素朴実在論者サイドから出てくるわけだが、その問いに説得力を持って答えていくためには、ドゥルーズが「襞」と呼んだ高次元多様体の多重な実態構造を順を持ってある程度、解明して提示していく必要がある。
しかし、これを学問的なレベルで極めるにはかなり高度な数学的知識が必要だ。ヌースは無謀と知りつつも、これに挑戦していこうとしている。大変だ。ラカンも数学が得意じゃなかった。そして、性格が悪かったせいか(笑)、数学者たちもラカンの仕事に特別、興味を示さなかったようだ。1970年代にラカンの仕事が現代数学と結びついていれば、ものすごいことになっていたかもしれない。最近復活してきた超ヒモ理論だって無意識構造の理論と見る視座がとっくに生まれていたに違いない。
無意識構造をこうした空間のトポロジー構造の複合構造体として考えてみようという発想は実は日本にもあった。京都学派と呼ばれる西田幾多郎や田辺元たちの思考の足跡の中にそれは見つけることができる。ただ、彼らはあまりに早すぎた。実際、西田の説く「場所の論理」や「絶対矛盾的自己同一」の概念のアウトラインをあますとこなく数学として記述ためには、トポロジーは言うに及ばず、現代幾何学の最先端の概念が必要となるだろう。でも、それが現れてきているのだから、その意味では受胎の時期はいよいよ迫ってきているのだろう。
ネットで検索した範囲しか分からないが、まだ、人間の心と物質をつなぐ性的作業は専門的にはどこも行われていないようだ。砂子さんぐらいかな。産業に奉仕する実学も大事だが、それよりもっと重要なことは、今や崩壊の一途を辿っている大きな物語(価値)を復活させていくための新たな知の再編集作業である。僕は無知蒙昧な一介のドシロウトに過ぎないけれど、自分の心がそれを作れと叫んでいる。だから、トンデモと言われようが電波系といわれようが、やがてやってくる待ち人を迎えるため、たとえ粗末でもなけなしの金をはたいて、お祝いの晩餐のテーブルを用意するしかないのだ。——「ようこそ、本当の君。やっと会えたね」と言いたいじゃないか。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 3 • Tags: ドゥルーズ, ハイデガー, ラカン, 大森荘蔵, 素粒子, 西田幾多郎