9月 26 2005
水博士
今日は東京にいる。月例の東京出張である。毎月、東京に出てはいろいろな人たちに会っているのだが、今回は、一部で水博士と呼ばれているK氏との面会が主なる目的で上京した。
K博士はもと日立製作所の研究員で、半導体洗浄のための水の研究をやっていたらしい。13年ほど前、わたしがまだ駆け出しの頃、中国の北京大学との学術交流でご一緒した縁で知り合った。北京大学ではK博士と共に研究発表をさせていただいたが、当時はヌース理論という名称はなく、タキオンの研究者ということで、とてつもなくぶっ飛んだ話をして、北京大学の教授連の目を白黒させた記憶がある。それとは対照的に、この老練の研究家は水の神秘性について豊富な科学的データからいろいろと語り、拍手喝采を浴びていた。
今回、久しぶりに博士のもとを訪れたのも、今や水博士と呼ばれるようになったこのK博士にNCジェネレーターでヌース化した水の物性分析をお願いするためであった。訪問する前に電話で一報入れておいたのだが、博士の方もわたしのことをよく覚えていてくれた。「あ〜、半田さんね。忘れてませんよ。確か北京大学で雲をつかむような話をされてましたよね。」当時は、ほんの駆け出しの青二才だったが、とにもかくにも、「ぶっ飛びの半田」が功を奏したのかもしれない。現在、やっていることを少し説明したら、是非、研究所の方へおいで下さい、ということになった。研究所と言っても池袋駅の近くのマンションの一室で、室内は研究書類や、実験装置などで溢れんばかり。その中で二人埋もれるようにして楽しい水談義が始まった。
現在、某国立大学でも教鞭を執ってるK博士は「気」や「波動」といった目に見えない力の存在を否定しない。それは水研究の現場で、そうした力が水の性質を変えることを何度も目撃してきているからだ。しかし、博士は言う。
「半田さん、水は気功師が発する気や鉱物の力によって確実に何らかの変化をしているんですよ。しかし、残念ながら、現在の測定機器ではその変化を拾うことができない。水の善し悪しの本質はミネラルがどうしたこうしたかとか、phがどうのといった表層的な問題じゃないんです。物質を見ても絶対分かりません。何か未知のエネルギーなんですよ。エネルギー。それは、かすかにスペクトル分析で顔を出しそうになるけれども、結局は、測定誤差範囲内での変化でしかないから、科学的には無視される。でも、その無視された部分にとても重要な何かが隠されてる。」
そういう話が初っぱなから出てきたものだから、わたしの方も調子に乗って、現在、行っている自分の現在の作業について一気にまくしたてた。当時の理論は現在では飛躍的に進化したこと。その理論を使って機械を作ったこと。この機械が素粒子構造のカタチを再現する機械であること。現在の物質は歪んでいるということ。その歪みをこの機械が是正する力を持っているということ。様々なデータが出始めていること。どうしても物性レベルの変化を示す科学的データを引っぱり出したいということ。etc。
博士によれば、来年、筑波の高エネルギー研究所に中性子の状態を解析できる器機ができるらしい。それを利用すれば、今まで不可能とされていた水分子についての数段精密な分析が可能になるという。
「半田さん、面白いねぇ〜。よく、ここまで持って来たね。全面的に協力しましょう。」そう言って固い握手を交わした。よっしゃ、これで博士も乗り気にさせることができた。まずはめでたしめでたし。ヌースのテクノロジーの有効性を証明するためにも、この勝負には絶対負けられない。
重要なことは、サイエンスとスピリチュアルの接合を果すこと。その接合はまず水から起こる。わたしの直感はそう訴えている。水はヌースでいうところの脈質である。脈質とは次元境界を接合したり乖離させたりする、言うなれば、次元調整機構の源泉である。その本質は時空を挟んで対峙する自己と他者の表相にある。モノを中心に放たれた表象作用の2つの方向。それが酸素(O)と水素分子(H2)の結合の意味なのだ。この次元の顕在化のカタチが物質レベルに顔を出してくるとすれば、それは現在の水に強烈な変化の一撃を与えるはずなのだ。ヌース的錬金術は、まずはこの水のメタモルフォーゼ、すなわち錬水術から始まる。世界中の水を目覚めさせること。8人のノンモを再びこの地上に降下させること。そこにシリウスの入口がある。
1月 20 2006
夢見るヌース
カフェネプで主観/客観の議論をやっている。この論争は古くは、プラトンVSアリストテレスからカントVSヘーゲルまで、哲学史の潮流全体にわたってアポリアとして解決されていない難問だ。
20世紀になってフッサールが現れ主客一元論を説いた。しかし、フッサールの主客一元論は簡単に言えばそれはコインの裏と表のようなものだと言っただけで、裏と表という二元性が払拭されているわけではない。さらにフッサールの思考の背後にはやはりプラトン的なイデアが垣間みられ、結局のところ超主観的観念論の枠を出ていないと批判されている。 その後の哲学の衰退ぶりは周知の通りである。今や主客問題など一部のオタクをのぞいて見向きもされない。
象徴界の勢力が衰弱してきていることからも推測がつくように、言語的思考はすでに限界に来ている。主客問題を言語によって解決するのは不可能だろう。言語とは本来、あらゆる概念に自己同一性を強いるものであり、A=非Aであるということを許さない。A=非Aならば論理が存在しなくなるからだ。つまり、言語こそが二元対立の温床なのである。そして、言語の本性はラカンが言うように、この「非」という否定性としてある。同一性を支える裏には絶えずこの「汝、それに非ず」が隠されているのである。
だから、実のところ言語は哲学には向いていない。哲学は思考を思考する営みである。概念を絶え間ない連続性のもとに生成していくこと。これが思考に託された責務である。思考は連続性を持つ。絶えず微分可能な無限次元の多様体。それが思考の源泉なのではあるまいか。否定とは切断である。連続性はたった一つのNonで不連続となるのだ。すべてを肯定していく精神、それが創造的知性を働かせていく力である。この力の場はNonさえもすぐにQuiへと変身させていく魔法で満たされている。だから言語では生成はあり得ない。生成の秘密は古代の知恵がいうようにおそらく幾何学にある。幾何学において絶えずQuiを発し続けるもの。それがスピンなのだ。旋回する知性とはそうしたスピンを続けて行く身振りを持つ思考物体のことをいう。
数学でドナルドソンの定理というのがあるそうな。正確な数学的内容は私ごときの頭で理解するのは無理だ。しかし、この定理では4次元空間は無限の微分構造を持つといわれている。つまり、無限次元多様体は4次元空間の中であたかも層のようにして無限数の次元の重層構造を持っていると考えられるというわけだ。宇宙が何故に4次元時空なのか?また、宇宙の原初に何故に閉じた4次元時空が存在したのか。4次元時空から4次元虚時空への移行。。これがホーキングが示した無境界仮説というものだった。ホーキングは時間の始まりの特異点を避けるために虚時間を導入したが、それが虚時間の世界というのなら実時間とは無縁のはずだ。ならば僕らは、今、思考の力によってこの虚時間を導入すればいい。それがヌースが主張していることだ。虚時間とは意識の方向性の反転である。i側に囚われた意識を−i側へと変えること。他者の眼差しの中に自分を見ているならば、いっそのこと自分の眼差しを他者だと思えばいい。これがヌースにおける交替化の奥義である。主体の交換は可能なのだ。この反転を挙行すれば、そこは宇宙の始源であるアルケーとなる。虚時間が訪れるのだ。
硬式野球のボールは糸でグルグル巻きにされているが、中心にコルクが芯として埋め込まれている。アルケーに出現する純粋思考の辿る足跡はこのコルクの芯に始まって、次元を無限に上昇していく。このボール作りにとって、芯となるのは3次元球面である。純粋思考はこの球面をスタート地点として、自身の肉厚であるn次元球面を作り上げていく。それがおそらく物質の本性である。この思考の糸は途中、幾度もNonの応酬に合う。しかし次元の連続性を紡ぐための技を会得しているゆえに、身軽に旋回し、精神の空間を上昇していく。素粒子から原子に見られる旋回性はその連続技が転倒した逆写像である。途中の抵抗は有機分子としてその形跡を残す。
さて、となれば、宇宙創造を巡る純粋思考の原点は3次元球面にある、ということが言えるだろう。わたしが先日、3次元球面で大騒ぎしていたのも、このへんの事情があったからだ。3次元球面の回転軸に当たるのは、代表的なものを取れば電子のuスビンとdスビンだ(実際には不確定性原理によりスピンの軸は直立しないが)。この球面のSO(3)もどきの3軸を考えれば、それはアイソスピンと呼ばれるものになる。そこに陽子と中性子が生まれている。3次元球面が見えているのだから、今のわたしにはこの両者も見える。アイソスピン………何と的確な命名だろうか。。しかし、同時にそれは皮肉な命名でもある。
生成の構造は信じ難いほどシンプルだ。このシンプルさは、主観と客観の一致が果たされれば子供たちでも容易に理解できるようになるだろう。主観と客観の一致。それは言語的思考ではなく、幾何学的思考によってまもなく果されることになると思う。唖然とする世界が待っている。新しい時代のコペルニクス的転回までもうすぐだ。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: カント, プラトン, ラカン, 主観と客観, 素粒子