11月 4 2008
BETWEEN TIDES(ビットウィーン・タイズ)
マヤ暦関連の書籍を数冊出している高橋徹氏との対談の企画が決定した。主催者の意向でなるべく少人数でやりたいということで、小田急線の狛江駅のそばにある泉の森会館という小さなホールが会場に選ばれた。日時は12月20日の土曜日、午後6時半から9時半まで。3時間の長丁場だ。高橋氏とお会いするのは実に5年ぶりぐらいだろうか。きっとスリリングなイベントになるに違いない。今から楽しみでならない。
イベントの詳細を知りたい方はこちらのページへ→http://www.point0.jp/symmetry/exhibition.html
高橋氏との初めての邂逅は確か1992年だった。そのときの様子は『2013 : 人類が神を見る日』に詳しく書いたが、当時の僕にとってこの邂逅は実に鮮烈な体験だった。ニューサイエンス系の知識一辺倒だったその頃の僕に、ブラバツキーやシュタイナー、さらにはグルジェフなど、20世紀思想の地下水脈とも呼べる世界の存在を教えてくれたのが彼だったからだ。
当時、高橋氏の研究はマヤ暦(ツォルキン)を中心としたものだったが、マヤ暦が巷でブームとなるにつれ、本人自身、マヤ関連の動きからは身を引いていったようだ。その当時,いつも「マヤ暦のメッセンジャーとしての高橋徹という肩書きは持ちたくない」と話していたっけ。彼のオリジナル研究は太陽系の各惑星周期と人間の無意識構造の発展に潜む関係性を調べることにあった。占星学に言うように、人間の無意識構造と太陽系構造の関係をまずは自明のものとし、さらにそこに、公転や会合などの惑星周期と歴史的無意識の進展関係を時間的な比率の観点に立って構造的に明らかにしようとする野心的研究だ。彼の研究が現在どこまで進んでいるのかは僕は詳しく知らないが、当時でさえかなり精緻な理論構築に驚かされたものだ。今はおそらく常人の想像力が及ばないところにまで進んでいることだろう。
あれから20年近くの月日が流れたが、彼の思考空間にヌーソロジーの入射角からアクセスできるかどうかはまだ不明だ。素粒子空間と太陽系空間の連結のルートがまだよく見えてこないからだ。ヌーソロジーの思考が太陽系空間に出て行くためには、身体空間の射程をまずは明確に捉える必要があると考えている。身体と大地は単なる物質的なエネルギー循環だけではなく、意識的にも分ち難く結びついており、その大地が一つの球体として出現している場所が太陽系空間なのである。実存的地球とでも言えばいいのだろうか、人類全体が意識している身体空間の在り処を僕らは深く掘り下げて思考する必要がある。回転が精神の象徴であるならば、太陽系とは人類全体の身体空間の奥にさらなる深みを持つ惑星的身体が具備している精神の表現の場として出現してくるはずである。
その意味から言えば、現在の科学的な太陽系観は矮小極まりないものに堕している。コペルニクスの地動説以降、科学の目は常に世界視線となって地上を俯瞰するものとなってしまった。この世界視線が持った眼差しは、普遍視線(地上での人間が持つ等身大の視線)の中に育まれた人間の内在野での生活をことごとく隠蔽し、ごく表層的にしか事象を捉えることができていない。物質は常にその外皮に置いて分析され、物質の内的生活など存在しないと言わんばかりに、ただただ物理化学的知識のもとに記号の帝国を作り上げているだけだ。この記号の多様性は確かに饒舌だが、いかんせん概念がない。機械的な思考だけがまるでスケートリンクの上を滑る石ころのように単純な軌跡を描いて反復しているだけだ。そんなつるっ禿のような空間に太陽系を浮かべて分析したところで、太陽系はその深み方向にある本質を決して露にすることはないだろう。
内在野に存在するn次元多様体として太陽系を捉えること。精神に内在する差異の連動系として諸惑星の回転を捉えること。これは身体空間の延長に地球空間や月空間を感じ取り、そこに生まれてくる身体的意義を通して、諸惑星の調和的運動を思考していくことに他ならない。満月や新月とは何なのか。白道とは黄道とは?そして、太陽はなぜ核融合の場となっているのか——etc。
こうした問題まで語り合えるかどうかは分らないが、空間を思考することと時間を思考することの対称性が垣間見える場所が作れれば、まさに「BETWEEN TIDES」というタイトルにふさわしいイベントになるだろう。ぶっ飛ばしまっせ!!
11月 10 2008
時間と別れるための50の方法(49)
●たて、よこ、高さ、そして「誰が」という次元


スピノールの回転が次元観察子ψ5とψ6の等化運動を意味しているのならば、次に問題となるのは、4次元空間上に生まれるこのスピノールの回転の位相(角度)とは何を意味しているのかということです。スビノールが4次元空間上で回転しているとすれば、それこそ回転のどの位相にもスピノールが巡ってこなくてはならないわけですから、スピノールが円形状にグルッと無数並べるような自由度が必要となってきます。そして、その中でわずか0.1度でも回転させたこのスピノールは、一つの位相のスピノールが自己の知覚球体を綜合したものだというのであれば、自己から見たものとはまた違う知覚球体を綜合させている必要があります。こういう状況をセッティングするためには、下図1のように一つの対象を取り巻いている無数の主体というシチュエーションを設定する以外、方法はないように思えます。
つまり、彼の視線、彼女の視線、誰々の視線というように、視線が各々の主体の一人称を反映させたものであるならば、その視線自体がスピノール的意味合いを帯びたものになっているのではないかということです。このとき、この対象を見つめている周囲の無数の主体(知覚球体)は、4次元空間ではそれぞれが一つのスピノールとなって、対象の内部空間を下図2のように埋め尽くしていることになります。
このとき、対象を取り巻いている無数の観測者には、その各々の位置で認識されている知覚球体がおそらく存在していることでしょう。二人の観測者が同じ位置を占めるのは不可能ですからそれぞれの知覚球体にはどれとして同じものはありません。この差異がそれぞれの観測者の単独性を保証していることになります。そして、この単独性が4次元空間では、対象の内部性を形成しているスピノールの各位相に対応してくるのではないかと考えるわけです。僕はこうした描像から、空間の第4番目の次元とは「who――だれが」を決定する次元だと『人神/アドバンストエディション』で書きました。ですから、ヌーソロジーが解釈する4次元空間とは、タテ、ヨコ、高さ、という従来の3つの次元に「誰が」という自由度の次元を加えたものになります。
さて、こうした回転が何を行なっているかはかなりイメージしやすいのではないでしょうか。それは人間の意識における現れの部分では、一つの対象(背景面も含む)に対する様々な観測者の視線の綜合に対応してくることになります。実際、そのような回転が皆さんの意識の中でもごく普通に起こっているのが分かるはずです。一つのモノを取り巻いて、その周囲から次々にその対象の違った側面を眺めているような意識の運動です。もちろん、このとき「わたし」の視野の中に他者の視野に見えている像が直接リアルに入り込んでくるわけではありませんが、意識には対象を様々な角度から同時に見ているような力が想像力として働いています。言い換えれば、わたしの意識に対象が立体的事物であるという認識が成立しているウラには、このような「もし、彼、彼女、彼ら、彼女らがいるあのそれぞれの位置から見ればこの対象はおそらくこれこれこのように見えるに違いない」という可能的現実が意識に作用しているからです。この可能的現実の存在はとても重要なものです。なぜなら、もしそのような可能的現実への探知能力が意識に備わっていなければ、主体にとって世界は全く断片的なバラバラの平面像の連続としてしか映らないと思われるからです。立体の正面像がわたしの視野に「図」として浮かび上がっているとき、他の見えない側面の像の一群は「地」として潜在化しています。しかし、その見えない潜在化した像を存在としてウラで支えているのは、まさに他者の知覚野とその知覚野に対してわたしの意識が感じ取っている可能的現実なのです。つまり、他者とは客体世界が成立するための絶対条件となっているわけです。こうした他者は普段僕らが気軽に「あなた」と呼んでいるものとも違いますし、また、別の「わたし」としての他者でもありません。なぜなら、客体を形作るために必要不可欠な他者なわけですから、これは「わたし」の一部を為している他者と言ってよいものです。
主体はこのように可能的現実としての他者の絶対的前を包含することによって主体の意識を拡張し、その拡張を支えているのがスピノールの回転ではないのか、というのがヌーソロジーの考え方です。つまり、スピノールの回転は人間の意識に3次元的な客体概念の場を形成させる働きを持たせている精神作用の現れでなかろうかということです。
一つの事物に対するこうした多視点からの同時的知覚の張り合わせ状態は、『光の箱舟』にも書いたように20世紀初頭にピカソやブラックが分析的キュビスムで用いた手法です。その意味で言えば、キュビストたちはスビノールの回転の次元に自身の眼差しを置き絵画制作に勤しんでいたと言えるのかもしれません。このキュビスム的感覚は現代では「バレットタイム」というデジタル技法によってよりリアルな映像表現として映画やCMクリップなど身近なところに氾濫しています。これについては以前、『マトリックスに未来はあるか』というタイトルでエッセイにまとめていますので、興味がある方はそちらを読んでみて下さい。
→→マトリックスに未来はあるか
さて、今までの説明はあくまでもスピノールの回転が人間の意識にどのような働きとして現れてくるのかということに関する説明です。しかし、ヌーソロジーからの真の問題提起とは、スピノール自体が実は真の主体そのもの姿であるということにあります。ということは、スピノールの回転している次元とは無数の主体が集合した高次の精神の場だということになってきます。となれば、もはや次のような言い回しをしても皆さんに怪訝な顔はされないと思うのですが、いかがでしょう。

4次元知覚を獲得した者にはモノは3次元球体ではなく3次元球面として見えてくる。そして、そのときのモノとはもはや客体というよりも、個体性を脱したトランスパーソナル的主体の姿と言っていいものである――。
3次元球体に重なって存在させられている3次元球面という観念のカタチ。4次元知覚の獲得によってモノがこうした形象として見えてきたとすれば、もう皆さんの認識力は物質と意識の垣根を超えた領域に侵入を開始していると言ってもいいでしょう。過去の神秘家や哲学者たちが直観や深い思索の果てに垣間見た「見ているものと見られているものとが一致する主客一体の空間領域」を来るべき進化に向けてヌース(旋回的知性)の働きが逆探知させてきているのです。近代以降、主客二元感覚を頑なに遵守してきた人間の意識がモノ自体との邂逅を求め始めていると言ってもいいかもしれません。物質の内部へとその内側から意識を侵入させ、神の思考を辿って創造のルートを想起していくこと——4次元知覚とはまさにそのエントランスに相当するものなのです。
――つづく
By kohsen • 時間と別れるための50の方法 • 5 • Tags: 人類が神を見る日, 光の箱舟