8月 3 2016
量子力学は天と地をつなぐ剣の知識となるべき―「僕らのヌースレジスタンス」
素粒子は円環的、時空は直線的といつも言ってるけど、この関係を分かりやすく例えると、巻尺とそこからスルスルと延びてくるメジャーの関係に似ているね。つまり、素粒子というのは物質的な対象ではなくて、時間と空間を巻き込んだ球体のようなものと思うといいよ。
その巻き込みの様子が数式として表されているのが波動関数(平面波の式)のψ(r,t)=Ae^i/h'(p・r-Et)というヤツ(以降h’=ディラック定数)。空間がr(=x,y,z)。時間がt。ムッチャ難しい式に見えるかもしれないけど、基本はe^iθという複素平面上の単位円における回転。今言った時間と空間を巻き込んだ円がこの式で表されていると思うといい。
素粒子を時空の中の対象と見なせば、それは物体のように運動するものになってしまうよね。運動すると、そこには運動量やエネルギーというものが生まれるわけだけど、運動量やエネルギーといった概念は言うまでもなく、時間とか空間があって初めて概念化できている。
でも、素粒子は時空上にあるのではなく、時空を巻き込んでいるわけだから、通常の物体のように時間と空間の中を運動しているわけじゃない。だから、ダイレクトに運動量やエネルギーを導き出すのも無理。
こうした理由から、量子力学では運動量やエネルギーといった物理量が演算子に置き換えられてしまうんだね。
演算子というと難しく聞こえるかもしれないけど、ぶっちゃけ、巻き込まれた時間と空間を巻尺の中から再びメジャーとして直線的に引っ張り出すということ。このときの操作が数学的には「微分」に対応している。これは円に接線を引くイメージと考えるといい(下図参照)。
で、運動量を出したかったら波動関数Ψに運動量演算子-i/h’∂/∂rというのを作用させる。これは「Ψを空間rで微分して-i/h’をかけよ」っていう指令のようなものだと思えばいい。
すると、ψ(r,t)=Ae^i/h'(p・r-Et)の肩に乗っかっている()の中のp(運動量)がe^iθの前に飛び出してきて、実数値として弾き出されてくる(係数Aは確率振幅と呼ばれるものだけど、ここでは考えなくていい)。
エネルギーpだったら演算子はi/h’∂/∂t、つまり時間で微分してi/h’をかけなっせ、そしたら、Eが前に実数値として飛び出してきまっせ、ということになる。
つまり、時間と空間を共に巻き込んだ巻尺から、運動した空間を引っ張り出すか、運動にかかった時間を引っ張り出すか、それによって粒子の運動量とエネルギーが決められるってことだね。
普通、物理学者たちはこれを単なる数学的手続きとして考えていないので、すんなり素通りしちゃうわけだけど、思考する人はここから「量子の世界がこんな仕組みを持っているのはなぜか?」と考えなくちゃいけない。空間並進(移動)がそのまま運動量になって、時間並進(経過)がそのままエネルギー? どういうこっちゃ、これ? と考えるわけ。
観測問題などもあって、量子が単なる対象ではないことはもう分かってる。勘のいい物理学者たちは、それは役者でもあり観客でもあるということをすでに知ってはいる。。つまり・・・そう、観測するもの自体が観測されているということなんだね。空間をこれだけ移動したという認識、時間がこれだけ経過したという認識。。それが量子の運動の正体じゃないかってこと。
となれば、この内的認識力自体が(これは物理的力ではないよ)が時間と空間いう場所に表出してきた状態が素粒子が持つ物理量としての運動量やエネルギーとして、つまり、対象として観測されているってことになる。ただし、ここで-i/h’やi/h’(微分演算子の前についている係数)というフィルターを通して実数化するというズルをしているけどね。
この-i/h’やi/h’の正体は他者と関係していると思うといいよ。認識という内在性を客観世界側に持ってくるために他者と共有できる空間に翻訳しているんだ。これが実数の場だね。
だから純粋な複素数量(「量」という言い方は的確じゃないけど)というのは、僕らの内在性の中に眠る持続空間の力だと考えるといい。人間の精神と無関係な物理的客観世界なんてものはハナから存在していないんだよ。
その目で自然を見てみるといいよ。それは僕らとは無関係に外に作られてきたもんじゃない。じゃあ、一体何だ? 答えはたぶん一つしかないよね。素粒子が僕らの内在なんだから、素粒子で作られている自然も僕らの内在なんだよ。僕らの内在の奥の奥にこの自然を生成させている未知の空間があるんだよ。僕らはせっかく想像力を持っているんだから、そろそろその空間に向かってイメージを広げないとだめ。宇宙とは本来、その空間の中の風景を言うんだよ。
天地をつなぐ「剣」の知識によって初めて天地は同一のものとなる―古代から人間が憧れ続けてきたこの知識の獲得に向けて、今、新たに開き始めた奥行きの空間=剣の中に皆んなで入って行こうよ。
これが「僕らのヌースレジスタンス」だ(笑)。
10月 5 2016
マイナーな民衆のために
ベルクソンは僕らが時間と呼んでいるものは空間と持続との混合であると言っていたが、他者の奥行きが自己には幅に見えることがまさにその混合を象徴している。持続の内部構造を見ていくにあって、まずはこの癒着を注意深く切り離していく必要があるのだが、このベッタリ感はかなり執拗で手強い。
時空と複素空間の混合。これは波動関数の基本的な形式ψ(r,t)=Ae^i/h'(p・r-Et)にも如実に現れている。外部(r,t)が複素空間の位相θの中に何気に組み込まれているのだ。これは持続が時空を巻き込んでいる様子とも言えるが、同時に時空が持続を束縛している様子とも言える。
複素空間から生まれた時空が、今度は複素空間の中に潜り込む。言い換えれば。無限小と無限大の間に交わされている無窮の呼吸運動。この反復がわたしたちの無意識の生態であることをまずは物理学者も心理学者も知るべきだろう。
フロイト=ラカン的にいうなら、この反復回路は欲望の生産回路でもあるということだ。
目の前には二種類の空間が重なっていると言ってきた。一つは他者と共通了解を取れる客観的空間。もう一つは、そこで想像力や記憶力が活動している秘私的な持続空間。この二種の空間の絡み合いを支配しているのが素粒子の内部構造である。それが見えてくれば、わたしたちの知性は全く別の大地に出る。
物質と精神を区別して語るのはもうそろそろ止めにしよう。宇宙全体をわたしたち自身の精神の活動場として看取していくための思考様式というものが実際に存在しているのだ。資本主義に奉仕するのを悪いとは言わないが、学問はそろそろそこに向かって動いてもいいのではないか。
宇宙的卵の膜を溶かして宇宙的精子をそこに流し込むこと。物質と精神の間に交わされるエロス。あらゆる生殖の原理はまさにここに根付いているのだから。
メジャーな人間を精一杯全うしながら、同時にマイナーな民衆としても生きろ。反時代的に、反大衆的に。それが”別人”の生というものだ。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: ドゥルーズ, ベルクソン, ラカン, 波動関数, 素粒子