4月 19 2016
ナルキッソスとエコーのスピンオフ
言葉を受け取るとそこにはイメージが浮かぶ。一方、イメージが浮かぶとそこには名付けの衝動が起こる。水星の少年と金星の少女の間に繰り広げられるエロス的関係がここにはある。この恋愛体は人が生きることの中でシーソーゲームのように延々と反復しているが、一体、二人は何を望んでいるのか?
言葉とイメージの反復を裏で操っているのは、言うまでもなくこの両者の間にあるズレだ。このズレは他者と自己の間にあるズレと言い換えてもいい。というのも、他者は言葉としてやって来るものだし、一方の自己はいつも知覚と共に居るからだ。
他者と自己の間にあるこのズレによって、水星の少年と金星の少女の間に生まれている恋愛体は時に抗争体ともなり、数え切れない喜怒哀楽を人間たちの中に送り出してきた。
このズレの正体とは一体何か?ということについて、現代の思想家たちの結論は概ね一つにまとまっている。それは、僕らが「意味」と呼んでいるものだ。でも「意味」って何だ?
意味について考え出すと一気につかみどころのない感覚に襲われる。意味を言葉で表現しようとしても、結局のところ、言葉の中をグルグルと堂々巡りするだけだ。
「意味の意味とは存在である」と言ったのは確かハイデガーだったか。これが正しいとすれば、存在は言葉とイメージの間に埋もれているということになる。同じく、他者と自己の間にも。
そこで、また象徴的思考が訴えかけてくるわけだ。水星の少年と金星の少女の間に身を潜めているものは二人の亡き父と母に当たるものに違いない。そして、それは地球と月だぞって。そして、おそらく、このときの地球と月とは精神と物質と言い換えてもよい。
水星の少年が月を見つけ、金星の少女が地球に戻るとき、意味は存在へと生まれ変わり、そこに太陽が顔を出すことだろう。
アバウトだが、水星の公転周期と月の公転周期の比は円周率π、金星の公転周期と地球の公転周期の比は黄金比Φ、という関係がある。
これは言語は物質に円周率として関わり、知覚は精神に黄金比として関わっているということを暗示している。
意味の内部には円周率と黄金比に満たされた存在のめくるめく無限がある。
この二つが共同しあって生み出すものが黄金螺旋なのだ。
取り留めのない書き込みで申し訳ない。
5月 12 2017
「ある」「いる」「なる」のトリアーデ
ある・いる・なるの関係を分かりやすく図にしました(下図参照)。そのまま意識の反転の経路になっているのでヌーシストは要チェック!!
この図で言うと、現在のヌーソロジーは「あるもの」と「いるもの」の間で反復している意識に「なるもの」へのルートを開く作業を行っています。
科学的思考は基本的に「あるもの」だけの世界をベースにしています。哲学的思考は「あるもの」と「いるもの」の相関関係をベースにしていますす。一神教的思考は「あること」と「あるもの」の結合関係をベースにしています。
このトリアーデは基本的にはグノーシス的思考のフレームですが、この関係を空間認識の幾何学を通じて具体的に論じていくのがヌーソロジーだと考えられて結構です。
一点、重要なことは、二つの自己が「なること」へと向かうとき、自己側から見た他者は「あること」へと向かうということ。それがヌーソロジーが変換と転換と呼ぶものの関係です。
「なるもの」の讃歌を歌い上げたニーチェ。「いること」と「あること」の差異を明確にしたベルクソン、「いること」から「なること」を通して「あること」と「あるもの」の一致を目指したハイデガー。そして、この運動を自然そのものと結びつけようとしたドゥルーズ。
こうした哲学者たちの営為にもかかわらず、世界は未だに「あるもの」の中に閉ざされています。それどころか「いるもの」からさえも離れようとしている。これはかなりデモーニッシュな状況と言っていいと思います。
さてさて、どうなりますことやら。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: ドゥルーズ, ニーチェ, ハイデガー, ベルクソン