3月 20 2019
ヌーソロジーの思考の原点
ヌーソロジーは「わたしは一体どこにいるのか」という、その場所を問うところからスタートする。わたしは今博多にいるが、博多にいようが東京にいようがわたしはわたしだし、昨日であれ、1年前であれ、わたしはわたしなのだから、わたしは時空によって規定されるような存在じゃない。もちろん、時空の中の物質など尚更だ。
じゃあ何によってわたしを規定するのか―そりゃあ、持続(記憶を支えているところ)で規定するのが一番妥当だろう―という考え。そこから、持続の場所論へと入っていく。
時空と持続空間の関係は「反転」している。もともと持続空間にいた「わたし」が時空へと引きずり出されたのは、いつも言ってるように、他者視線によって鏡像の世界へと投げ込まれてしまったからだ。幼児期にわたしたちは全員が選択すべき空間を誤ったのだとも言える。
持続空間は言うまでもなく「いつでも今、どこでも此処」という場所である。それが自分だというのは直感で誰もがわかるはずだ。問題は、その「いつでも今、どこでも此処」という場所がどこにあるのか。それだ。このことが思考できなくなったことが、人間に多大な不幸をもたらしている。
多くの人は自然をカオスだというが、カオスなのは人間の方であって、自然は極めて十全なものだ。自然はちゃんと、こうした人間がいるべき場所を確保してくれている。さっきも言ったが、実像としての人間の方は、複雑な化学反応のプロセスの中にではなく、時空に対して「反転した場所」にきっちりと位置付けられているのだ。
その場所は当然、時空に対しては「非局所的な位置」として現れる。物理学者たちは、それを対象化して「素粒子」と呼んでいる。ほんとうの自分を拒絶し、それをあくまで自分とは別のものとしてはねのけてしまっているのだ。自然を対象化しなければ気が済まない科学的理性。残念ながら、これが「男なるもの」の欲望の視線だ。もう、この視線の時代は終わりにしてもいいように思うのだが。。
こうした視線は直線的で、行き過ぎると、鋭利な刃物のようにして対象を切り刻んでしまう。その点、持続空間での眼差しは対照的だ。それは常に対象を優しく包み込む。物を包み、世界を包み、相手を包み、最終的には包んでいる自分をも包む、そうやって、何枚も空間を柔らかな襞のようにして折り重ねていく。
自然が電気的な化学反応のプロセスを経てここまで進化してきたとするような、物質化した自然の世界観はいい加減お開きにしたいものだ。自然はそろそろ精神化されていい頃ではないかと思う。「いつでも今、どこでもここ」としての素粒子たちが自然の根底で活動しているのだから、自然を一つの精神体と考えた方が、はるかに筋が通っている。
問題は、素粒子がわたしたちの精神を基礎づけているものと見なすために、どのような思考を通して素粒子に命を吹き込めばよいのか、ということなのだ。
ヌーソロジーはそれを試みている。
4月 1 2019
「わたし」が存在しない地球
―世界には「物」しか存在しないのだとしたら
人間の内面とは、物が客体化するところ。
人間の外面とは、物が主体化するところ。
人間の外面はまだまったく無意識の状態にある。
人間の外面は人間の内面から見ると、物のなかに入っている。
つまり、人間の外面は主客一致状態にある。
主客一致は素粒子において起こっている。
素粒子が複素空間でしか記述できないのも、
複素空間が主客一致の空間の形式を表現しているからだ。
虚軸が主体(持続)、実軸が客体(想像)。
互いの直交性は「観察」を意味している。
この複素空間のシステムは、
まずは人間に一つの物を認識させる。
次に無数の物を認識させ、そこに主体を作る。
次に無数の主体を合流させ、そこに鏡の原理を持ち込み、
人間に自己意識を発生させる役割を担っている。
複素空間のシステムは階層化されている。
それがヌーソロジーが「次元」と呼ぶものだ。
この「次元」をメタ知覚していくことが、
ヌーソロジーにおける無意識の顕在化を意味している。
ヌース的「超越論的経験論」と言い換えてもいいだろう。
素粒子知覚はそのベースが「タイムレス=永遠」なので、
これは死のパースペクティブを提供するものになってくる。
つまり、無意識の顕在化とは、自らの死のイメージをイマージュしていくことにほかならない。
死が生を裏支えしている生の本性だということがわかってくれば、
生と死の境界線は自ずと薄らいでいき、
人間も多少は姑息な生き物ではなくなるかもしれない。
もっとも、そこに「人間」という概念が残ればの話だが。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: 素粒子, 複素空間