8月 26 2014
魂の奪回——失われた真の対象を取り戻すために
僕らが物質と呼ぶものは飼いならされた奥行きにおける産物である。「飼いならされた奥行き」とは、もちろん幅化してしまった奥行きのことだが、この奥行きの幅化は本来の奥行きの左右方向への遷移(左右からの内的視線の介入)によって生じている。奥行きが幅になるとき、幅は同時に奥行きへと変わる。
奥行きを虚軸、幅を実軸とするなら、これは虚軸と実軸の相互変換であり、このような変換はパウリ行列のσ1の特性になっている。空間の中には事実としてそのような変換機構を持つ仕組みが存在しているということだ。
奥行きの幅化は当然のように対象と主体を引き離す。これによって本来奥行きの名のもとに主体と一つに溶け合っていた物質は主体にとって「失われた対象」と化す。引き離された主体はその失われた対象のもとに帰ろうと欲望するが、左右からの視線がそれを許さない。ダブルバインドがここに生まれる。
上位の審級としての超自我の視線。そのもとに生じる幅化した奥行きの上で主体は文字どおり肉体を持った自我となり、下位の審級として飼いならされる。こうした構図からも物質という概念がいかにオイディプス的産物かが分かるだろう。
超自我、自我、時間、空間、物質。そして、あの悪名高きシニフィアン。。これらはすべて一つの権力のシステムとして連動している。このシステムに徹底したレジタンスを仕掛けることが必要だ。戦場は常に内在野だということ。それを忘れないようにしよう。
5月 13 2016
局所と非局所の重なり(物質空間と霊的空間の重なり)
Φさんのツイートでの指摘について。
――今ヌースがレクチャー等の現場で説明されているSU(2)対称性の範疇は、出て来る関連用語の、SU(2)群、スピノル、パウリ行列、ディラック行列などの用い方などからすると、大局的位相(グローバルゲージ)変換で十分である域をまだ出ていないと思います。
というのは、局所的位相(ローカルゲージ)変換の際に導入される共変微分における接続係数であるゲージ場を、果たしてヌース的にどう解釈するのかという問題があるからです。
局所的位相(ローカルゲージ)変換としてのSU(2)対称性の説明が登場して、ようやく素粒子と自然界の4つの力の本質に立ち入ることができるのではないかと考えます――
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この指摘について分かりやすく話しておこうと思う。
ヌーソロジーの空間に対する思考様式というのは実は極めて単純なもので、局所化してバラバラになっている空間と時間の位置を反転認識によって、非局所としての一点に集めようというところにあります。それによって「どこでもここ、いつでも今」を形作っている魂としての空間のカタチを認識に浮上させるようとしているわけですね。持続空間が認識に上がってくるということです。
この非局所としての持続空間が、物理学にいう大局的位相(グローバルゲージ)変換と呼んでいるものが行なわれている場所だと考えるといいと思います。物理学はこの場所を内部空間と呼んでいます。内部空間は非局所ですから、当然、この空間での回転は時空上のあらゆる位置での回転として同時に反映されてきます。
しかし厄介なことに、時間と空間自体がこの内部空間から作り出されるという仕組みが物理学の中にはあります。それを司っているのが、Φさんがここで書いているSU(2)群、スピノル、パウリ行列、ディラック行列といった数学的な機構です。早い話、内部空間の中である種の回転が起こると、自動的に時間と空間が生み出されてくる仕組みがそこにはあるということなんです。
そして、さらに厄介なのは、そのとき作り出されてくる時空上の一点一点(局所)に、今度は逆にこの内部空間が張り付いてくるような仕組みが付け加わります。つまり、非局所と局所が絶えず重なり合うような空間構造が生まれてくるということです。
もちろんここで「重なり合う」と言ってるのは、通常の空間と反転した空間を目の前で二重化させて見ているヌーソロジーの空間認識からの表現であって、素粒子を単なるミクロの対象として見ていない物理学では「局所に非局所が張り付く」というようなイメージで表現されます。
で、Φさんのいう「局所的位相(ローカルゲージ)変換」というのは、時空上の一点一点に張り付いたときに生まれる内部空間の位相のズレを元に戻すような変換のことを言っていると思って下さい。この変換をヌーソロジーでは、局所化した認識を影で元の非局所へと戻そうとしている働きとして解釈します。
要は局所と非局所が時空と内部空間という両者の間で追いかけっこしているわけですね。この「局所→非局所、非局所→局所、局所→非局所~」という追いかけっこをドゥルーズの言葉なんかを援用して、「巻き込みと繰り広げの反復による襞の生成」とか気取って言っているわけですが(笑)。
で、ヌーソロジーでは今のところ、「巻き込み=反転」の思考作業によって非局所の場所まで辿り着き、それが時間と空間に繰り広げられているところまでは朧げに見えてはいるものの、その重なり方がまだハッキリしてません。本当はどこでもここであり、いつでも今であるはずの空間が、どのようにして空間と時間によって限定された無数の「ここ」と「いま」に繰り広げられているのか、そのイメージが今ひとつつかめていません。
これは言い換えれば、Φさんが言うところの「局所的位相(ローカルゲージ)変換の際に導入される共変微分」という数学的操作の構造と意味がまだハッキリと理解されていない、ということを意味しています。Φさんはそこを鋭く指摘しているわけですね。確かにここが突破できると、無意識の構造がかなりクリアに見えてくるのは事実です。
ここで「クリアになる」と言っているのは、素粒子のシステム=無意識構造という考え方が多くの人に相互了解可能になるという意味ですよ。OCOT情報のおかげで答えの方はすでに分かっているので、何とかその答えに辿り着く論理の道筋を削り出そうと思います。頑張るにゃ~。
この局所と非局所の仕組みが明らかになり、無意識化している非局所的空間の方をベースに人間が生きれるようになれば、人間は全く別の生き物へと進化するのではないかと思っています。それがヌーソロジーのいう「顕在化」という出来事ですね。知性による物質の霊化の始まりです。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: SU(2), スピノル, パウリ行列, 素粒子