11月 6 2015
フィールド・オブ・ドリームス
荒川修作-小林康夫の対談を読んで、アワカラの声が頭の中に響き続けている(笑)。
純粋な奥行きと幅だけの世界においては見るものと見られるものの分離はない。また、過去と現在の分離もない。だから、そこには表象が立ち上がることもない。表象の立ち上がりの次元はすべて、この〈奥行き-幅〉に、〈奥行き-幅〉が〈幅-奥行き〉へと逆転させられたものが重なってくるときに出現してくる。この逆転の介入が他者-構造というものだ。つまり、他者が見ている世界を自己が取り込む構造が無意識にはあるということ。いや、正確に言えば、このような他者-構造があるから、経験的な他者や自己が生み出されてくるということになるだろうか。この契機はラカンのいう鏡像段階から始まるが、このシステムがガッツリ完成を見るのは、フロイト的に言うなら、おおよそ、13~14歳(学童期の終わり)当たりだろうか。
一昨日、紹介した複素平面における円と実平面における双曲線の関係は、この他者-構造介入以前と介入以後の関係を幾何学的に表現したものだと思ってほしい。この構造が物理学が論じているディラック場(物質粒子のψLとψRが結合する場)に同型対応している。ディラック場というのは、物理学の文脈では、物質粒子の相対論的な波動方程式から導出されてくる物理的力の場とされるものだが、おそらく、その本質は自他におけるこの奥行と幅の変換とそれらの重合が活動している場所のことだ。先日、紹介した”自己ちゃん”と”他者ちゃん”が眼差しの交差を行なう場所のことと思ってもらえばいい。
カントのいう感性における直観形式としての空間と時間はこの機構から派生してくる。つまり、空間と時間は自他における奥行と幅の強制的一致による産物だということだ。ここで”強制的”といったのは、僕らがまだこの機構に意識的になれていないからだ。「客観は主観に従う」とカントが認識のコペルニクス的転回を行なったにもかかわらず、未だ僕らは、客観世界を超越的な外の世界だと思い込んでいる。そして、その中で、オレが正しい、とか、オマエは間違っている、とか言葉で言い争っている。
もう、そんな世界に皆、飽き飽きしているはずだ。この言い争いに終止符を打つためにも、僕らは内在性の延長に空間と時間を見出さないといけない。なぜなら、空間と時間こそが、僕らが「内在性を一致させている」当の場所だからだ。でも、ここで見出されてくる空間と時間は僕らが現在、経験しているものとは全く違ったものになってくる。というのも、それらは、もはや、客観的世界などといったようなものではなく、わたしとあなたが一致したもの以外の何物でもなくなってくるからだ。アラカワが言っている「共同性」とはこのことなのだ。
アラカワはこうした空間と時間の場所のことを「ランディングサイト」と呼び、その降り立ちのための仕掛けを模索し続けていた。一瞬を永遠へと回収させ、さらにはその永遠を再び一瞬の中へと舞い降りさせるような次元転移装置と言っていいだろうか。これは、僕から言わせてもらえば、カタカムナ人たちが「トキトコロノマリ」と呼んでいたものに他ならない。それは、一度、身体的自我を死に至らしめ、そして、その死を通過して再び世界とともに身体を表出させることと同じ意味を持っている。わたしたちの意識が内在性から空間と時間が生じてくるプロセスを辿り、そのプロセスそのものとなって世界に蘇るならば、世界がすべて内在と変貌を遂げるのは理の当然だろう。
付け加えるなら、ディラック場では、この円(内在)から双曲線(空間と時間)の発生において、同時に質量が生まれてくるとしている。これは、ランディングサイトは同時に「もの」を生み出す機構ともなっているということを示唆している。これもまたトキトコロノマリを「もの」と考えたカタカムナ人からすれば、当然のことと言えるだろう。OCOT情報のいう位置の変換、転換、等換のプロセスのことだ。
哲学的な補足をしておこう。
ドゥルーズが目指していたものはベルクソンが潜在的なものとして直観していた差異を救出することだった。差異の救出は人間の意識が潜在的なものの認識を達成し、それを新たなる現働性と見なすことによって可能になる。差異はヘーゲル的な同一性の中では同一性に従属したものとして現れるが、潜在的なものの浮上においては、事物の内在因、すなわち自己原因として現れる。この自己原因の認識はスピノザがいう第三種の認識に相当する。スピノザのいう第三種の認識とは永遠の相のもとに世界を知覚し、神の観念(事物の創造を引き起こしたところの認識)を直接つかむということを意味する。
そろそろ、永遠をベースにして物事を考えるようにしよう。アラカワが言うように、人間は死なない。死ぬのは法律違反なのだ(笑)。永遠をベースに物を考え出せば、必ずそこに永遠が現れて世界を包み始める。僕が昔、好きだった映画の中に出てくる言葉の中にこういうのがあった。
それを作れば、彼はやってくる――まさに、その通り。フィールド・オブ・ドリームスは実在するのだ。
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12月 18 2015
ヌーソロジーと大森荘蔵の「面体分岐」
今日は日本の哲学者の話を少し。
大森荘蔵の「面体分岐」という概念がある。これは本人の言い方を借りれば、視覚経験において「何が見えているのか」と「何を見ているのか」という二つの分岐のことを意味している。分かり易くいうと、おおよそ次のようなことだ。
今、目の前にパソコンが見えている。見えているのはパソコンのモニター部分だ。背後側のUSBポートの部分などは見えてはいない。しかし、この状況で他人に「あなたは何を見ているのですか」と問われれば、「パソコン」と一言で答えるに違いない。ここで大森が言っている「何が見えているのか」と「何を見ているのか」という違いは、こうした対象の見えと対象全体の概念の違いと言っていい。これは知覚と言語(名)の関係と言ってもいいだろう。
大森荘蔵はこの面体分岐こそが主体と客体との関係にほかならないと主張した。つまり、主体=心とは「見えているもの」に他ならないと言うのだ。彼にとって、わたしたち人間の心の在処は脳などではなく、見え姿が展開している知覚正面そのものにあるということになる。大森哲学とはまさにこうした「無脳論」なのである。
大森荘蔵の書物と出会ったのは90年代のことだったが、この「面体分岐」という概念は、ヌーソロジーが用いる人間の外面と内面という概念そのものと言っていいものだったので、当時、大いに共感、共鳴した。
大森の面体分岐は現在の人間の空間認識を根底から覆すポテンシャルを秘めていたにもかかわらず、4次元時空認識(人間型ゲシュタルト)にどっぷりと浸かった多くの知識人から手厳しい批判を受け、その後、この面体分岐の概念を哲学的に発展させようとする研究者の動きもない。
おそらく、ヌーソロジーは一番まっとうな大森の継承者ではないだろうか。大森は面体分岐を複素空間で説明することもなければ、もちろん、そこにベルクソンやドゥルーズを接続させることもなかったが、「差異」の在り方をこれほど単刀直入に説いた人物を僕は知らない。
さて、この大森の「面体分岐」をヌーソロジーの複素空間認識に対応させてみよう。
まず「面」の方だが、これは「何が見えているか」、つまり現象の直接的な立ち現れの現場のことを言うのであるから、世界の見えを構成する実2次元平面ということになる。
しかし、実平面だけではその見えを支えている持続軸=奥行きが存在していない。だから、この「面」には「見るもの」としての虚軸が直交していると考えてみよう。ここに実2次元と虚1次元からなる主観的3次元が構成される。この3次元は大森のいう「体」とは全く違うものだ。というのも「体」とは公共的な実3次元のことを言うのだから。主観3次元は大森の知覚正面と同じく極めて私秘的(プライベート)な空間である。
つまり、大森のいう面体分岐とは、客観的3次元としての「体」から単に2次元の「面」が分岐したということではなく、ドゥルーズ風に言うなら「差異」の立ち上がりを指しているということだ。その意味で、この面体分岐は正確には「時空と複素空間の分岐」を意味していると考えなければいけない。
大森は知覚正面のことを「こころ」とも言い換えたのだが、「面」に虚軸としての奥行き=持続軸が加わることによって、その概念がより安定するのが分かる。「面」における見えが刻々と変化しようとも、この変化は奥行き=持続軸によって把持され、文字通り心の中のイマージュとして活動するというわけだ。
では、人々が暗黙の前提としている「体」としての公共性、つまり、実3次元空間とは一体何なのか。それは簡単に言うなら「奥行きが他者に持っていかれてしまった空間」と言えるだろう。奥行き=持続軸が知覚正面から出て、知覚側面側へと固定されてしまったことによって意識に出現している空間だと考えるといい。
奥行き=持続軸は常に回転していると考えて欲しい。この回転が創造的知性の働きであり、ヌースの運動でもある。知覚正面の実2次元とそこに直交する持続軸としての奥行きが回転しているのなら、そこには実2次元平面の回転による3次元と虚軸の回転による3次元が二重化して生み出されていることになる。
この二つの3次元は相互に反転しているのだが、人間の意識には奥行きの回転が作り出している3次元は無意識化してしまっていて、幅側の実2次元の回転で生まれている3次元の方だけが想像的なものとしてしゃしゃり出てきている。つまり、実側を見つめている虚としての真の主体の方が認識できなくなっているということだ。
そして、この相互反転した虚と実の3次元空間が自他という形で2組存在させられている。大森のいう「体」としての3次元空間とは、これら二組が虚―虚*、実―実*というような同種結合を起こすことによって生まれてきている。実ー実の結合空間が3次元実空間で、虚―虚の結合空間の方は言うまでもなく「時間」だ。
さきほど、この公共的3次元を「奥行きが他者に持っていかれてしまった空間」という言い方をしたが、この共同視線(大文字の他者視線/ラカン)によって、自己は肉体として対象化され、同時にそこで言語(シニフィアン)が働き出すのだと考えるといい。言語は3次元空間や時間と切っても切れない深い仲にあるということだ。
ちなみに、ここに書いたすべての構造は現代物理学が露にしてきている素粒子構造の中で数式によって驚くほど詳細に記述されている。その意味で言うなら素粒子物理学とは心の構造を記述した一種の暗号のようなものと思えばいい。まもなく暗号解読法が登場し、わたしたちはポスト構造主義の行き先と現代物理学の行き先の完全なる一致を見ることになるだろう。
まことに驚くべきことだが、世界とは二組の「奥行きと幅」とで書き綴られた無限運動するテキストなのである。それがヌーソロジーがヌースとノスと呼んでいるものの本性と考えていい。
http://manji.blog.eonet.jp/art/2013/03/post-9830.html
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: 大森荘蔵, 奥行き