7月 10 2015
カタカムナに関する長〜いつぶやき
次回のレクチャーのテーマになっているので、カタカムナ関連の本(相似象学会誌)の何冊かを読み直しているところだけど、カタカムナの図象文字のシステムはすごいね。カタカムナ文字自体がすごいというのもあるんだけど、これを解読した楢崎氏の思念にもほんと恐れ入ります。
カタカムナ人たちは主体のことをアマウツルマリ、客体のことをアマヤドルマリと呼んでいたのだけど、何と美しいモナドの表現!だろ! 剣心の「 天翔龍閃( あまかけるりゅうのひらめき)」に似てるけど(笑)、空間として宇宙とともに生きている自分たちのことをありありと感じていたんだね、きっと。
致し方ないこととは言え、それに比べて、現代人の空間はいかに貧相でみすぼらしくなってしまったことか。こりゃ骸骨だよ。科学的世界観に催眠術をかけられて、命が生きている空間を見えなくさせられてしまっている。その空間を取り戻さないと、きっと、世の中は何も変わらないと思うよ。3次元空間だけの世界ってのは、結局、骸骨をいくつ集めたかを競い合うような世界なんだよね。
OCOT情報は「カタカムナ文明は存在した」と伝えてきたのだけど、僕自身は「ほんまかいな?」と最初は半信半疑だった。しかし、初めて相似象学会誌のページをパラパラとめくったときに、OCOT情報との類似性があまりに多く、ひょっとして「これってヒトの文明でねーの?」と感じてきたんだよね(笑)でも、十数年ほったらかしにしてた。
前にも呟いたと思うけど、OCOTの存在とカタカムナの関連性を感じ始めたのは「チカ」という言葉の意味の一致からなのね。これはつい最近。一年ほど前かねぇ〜。偶然の一致にすぎないと言えばそれまでだけど、僕の直観の中ではとてもデカイ出来事だったんだよね。
昔、OCOTにこんな質問をしたんだよ。「どうして近づくとモノは大きく見え、遠ざかると縮んでいくように見えるのか」って。するとOCOTは「空間の中にある〈チカ〉がそうさせています」と言ってきた。「何じゃ、チカって?上田知華か?そんなのとっくに消えたぞ。わけわからん」と普通はなるのだけど、足りない頭で必死で考えた。
自分なりの答えが見えてくるまで、結構、時間がかかったのだけど、最終的に出た結論は、不確定性原理に似たものだった。奥行きを虚軸、幅を実軸と見なせば、奥行きが小さくなれば幅は大きくなり、逆に幅が小さくなれば奥行きは大きくなる。知覚野を単位円内部の出来事と見なすと、モノの見えと奥行きの関係はそういう関係になる。
そこで、OCOTに「空間に存在するチカ」とは不確定性原理を与えているものか、と聞いた。そしたら、「その通りです。」と言ってきた。
で、つい一年前ほど、カタカムナの本を読んでいるときに、この「チカ」と深く関係するような箇所があったんだ。
カタカムナ文字では「チ」は「十」の縦軸の上端に小円の「○」をつけて表す。一方、「カ」のほうは「十」の横軸の右端に同じく小円の「○」がつく(下図参照)。つまり、十字をベースにして、カ→チというのは、○が90度回転している関係になっているわけだね。カタカムナの十字を複素平面の実軸と虚軸と見て、いろいろと考えていた僕にとっては、これは無茶苦茶、衝撃的な出来事だった。
というのも、この文脈で「カ」と「チ」を解釈すると、「カ」は位置空間、「チ」は運動量空間との対応になるからなんただね。量子力学では位置空間と運動量空間は反転していて、この反転性を複素平面上の90度回転で表現するんだよね。この回転は波動関数ψ(x)を位置で微分する意味で、運動量の量子化を意味してる。こういうやつ→ p=−ih・x/∂x。
おまけに、カタカムナでは「カ」は空間軸としてトコロのエネルギーと関係し、「チ」は時間軸として持続のエネルギーと関係しているとまで言っている。まさに価値(カチ)の方向は、「カ」から「チ」=持続の方向にあると言わんばかりにね(笑)
手前味噌な話で申し訳ないんだけど、実軸を幅、虚軸を奥行きとして考えると、話が全部つながっているんだよね。
カタカムナを少しでも知っている人は分かると思うけど、まず最初に「?」となるのが〈アマ始元量〉というやつだよね。「〈アマ始元量〉が微分化されたものが〈アメ〉である」と言われてもサッパリイメージがつかめないのではないかな?ヌーソロジーから見ると、このアマからアメへの微分化は空間認識の幅から奥行きへの移行に対応している。つまり、このカ→チに似てる。アマからカムに流れ込むと言ってもいい。
ヌーソロジーがいつも言っている「空間認識の幅から奥行きへの移行」というのは、奥行きに幅を充てがって見ている状態から、ありのままの奥行きで見る状態への移行っていう意味だけど、カタカムナのような哲学が残されているってことは、幅と奥行きの違いを昔の日本人は自然に認識してたってことだね。
「空間は3次元である」とか「世界は4次元時空である」とか言ってるヤツが周りにいたら、「貴様はそれでも日本人か!!」と言ってあげよう(笑)。日本人はアマ感覚にかなり支配されてしまっているけど、本質はアメ感覚で生きているんだよ。つまり、奥行き=ミクロ=微分化領域で生きているってこと。
目の前の空間に対してこのような二つの接し方があるということをまずは意識に上げないといけないね。主体と客体が分離して感じているのなら、それはアマ感覚で、奥行きに幅が入っちゃてる。もちろん、そのときの君は物質のかたまりにすぎない。
しかし、君が世界に真に接しているときは、アメ感覚。奥行きそのものとして生きていて、主客の分離ははなく、君は微分化されたミクロ領域にいる。そのとき君は「霊」になっている。
カタカムナはね、この霊がどのようにして物質を作り、そこからまたアマへと出て、そして、そのアマからまたカムを通してアメになり云々、という回りて巡る生命の道について語っているんだよね。そして、昔の日本人はそこに生きていたって。君は取り戻せるかな、原-日本人の精神。
何度も言ってるけど、空間は空っぽの容器とかじゃないんだよね。君が空間なの。君自身がね。
9月 11 2015
眼差しの場の量子論
生命が活動する空間を知るためには「見ること」と「見られること」の違いをしっかりと認識に上げることが必要だよ。「見ること」においては自分の顔は見えないよね。そこには純粋な経験があるだけ。自分が他者と同じように一まとまりの身体を持っている存在であるという認識は「見られること」からやってくる。
自我というのは常にこの「見られること」をフランチャイズにしている。つまり、自我は他者の眼差しに依存してこの世界にやってきたということ。だから、自我が日頃、意識している空間は他者が見ている空間をベースにしていることになる。これが外在世界というやつだね。そして、人間はこの外在世界のイメージを拠点にして、自分が「見ること」をも概念化している。「私が~~を見る」という表現自体がそういった概念で成り立っているということ。これがヌーソロジーのいう人間型ゲシュタルトというヤツだね。
悲しいかな、人間という存在は――初めに言葉ありき、言葉の命は光であった(ヨハネによる福音書)――というように、他者の光の中に埋もれていて、自分の光をまだ見れていないんだよね。ほんとうは「見ること」の方が先にあったにもかかわらず、「見ること」が「見られること」の起きている空間の中に沈んでしまって、無意識化してしまっている。
ヌーソロジーが「奥行きの覚醒」と呼んでいるものは、この最初に存在していたと思われる「見ること」が起きている空間を想起することなんだよね。フロイトが「幼年時代はもうない」と言うときの、その幼年時代のことと言ってもいい。「見られている」ことが起きている空間は3次元空間だけど、「見る」ことが起きている空間は3次元なんかじゃない、それを思い出せ!!ってことなの。
意識というのは常に志向性を持ってる。これをベクトルのようなもの(スピノル)としてイメージしてみるといいよ。見られるベクトルと見るベクトルというのは方向が全く逆なことがすぐに分かるよね。ここで、意識のベクトルも回転の渦の中に立ち上がってくると考えてみよう。つまり、〈見る―見られる〉という双方向のベクトルの廻りには互いに逆回りの渦が巻き起こっているということなんだ。
全世界共通、時計の針は右回りしているよね。実はこれが「見られること」を立ち上げている渦なの。時間の方向と言ってもいい。カタカムナでいうならばこれはサヌキ(右旋性)だね。男性性の力だってこと。このとき、アワ(左旋性-女性性)は文字盤として働いている。つまり、針が止まっていると考えれば、文字盤が左回りに回っているということ。文字盤は経過する時間ではなくて、それを支えている持続を意味していると思うといいよ。時間の流れを把持しているもののことだね。
見られる空間は右旋性、見る空間は左旋性。目の前で右巻きの渦を作ればその回転軸は自分の方向に向いていて、左巻きの渦を作れば、それは奥行き方向に向かっている、といったようなイメージだね。
ただ、ここで気をつけなくちゃいけないのは空間には右手系と左手系があるということ。これは他者空間と自己空間そのものと言っていいんだけど、人間の空間認識はこの区別が全くできていないんだ。物理学者だって、最初に座標系を決定するとき、これを任意に規定している。ひどすぎる。
自己の空間は左手系。そう思うといいよ。
左手で「Good!」のサインを作り、親指を自分の方に向ければ残りの四本指は右巻きに巻いていて、奥行き方向に向ければ巻きの方向が左巻きに変わるよね。自己から見た他者側のそれは右手で同じことを繰り返せばOK。
見られることは当然、他者側の見ることと一緒になって働いているから、左手の親指と右手の親指が両方とも自分の方を向くこととして表される。実はこうした自他における意識の志向性の出来事がミクロの領域で見えているのがディラック場というヤツなんだ。ディラック場では物質粒子の右巻きスピンψRと左巻きスピンψLというのが活動していて、それらがアイソスピン空間というところで混じり合っている。
「他者の眼差しによって、自我が意識される」というのは、この量子論的文脈に沿って表すとψL†ψRってことになる。ψL†(「プサイエル・ダガー」と読む)というのは、自己が見られるという意味だと考えるといいよ、他者側の「見られる」は同様にψR†ψLとなって、双方を足し合わせるとψL†ψR+ψR†ψLとなるのが分かるよね。要は見られるもの同士の結合をこの式は表しているってこと。
ディラック場では、実はこの形式で構成されているのが「時空」とされるんだよね。関係性を少し考えればすぐに分かってくるよ。渦の巻き方向が互いに相殺されて、方向性も相殺されて、自他のそれぞれ意識の志向性が見えなくさせられるような仕組みになっている。これがヌーソロジーでいう自他における「中和」の結合状態を意味していて、物理学的には「スカラー」として表現されるものなんだ。「スカラー」というのは「大きさだけは持っているが方向性がない」というもの。つまり、時空。
「方向性なきこの時空」から出るためには、再度、目の前の見えない渦に意識的になって、自らが渦を作り出していかなかいとね。それによって、時空は自他相互の二つの空間へと分解していくよ。それができて、ようやく本来の見ることが起きている内在性の空間を自分の意識によって切り開くことができるようになる。
このへんのことは前回の東京レクチャーで話したことなのだけど、そのときの図を赤ちゃんバージョンで一緒にアップしておくね。自我(見られることによって生まれる自己)がサヌキの産物だということが一目で分かるのではないかと思うよ。皆も、一度、この空間に潜む見えない渦について考えてみてね。
この渦が生命だから。
By kohsen • 01_ヌーソロジー, カタカムナ関連 • 7 • Tags: カタカムナ, スカラー, スピノル, ディラック場, フロイト, 人間型ゲシュタルト, 奥行き, 量子論