2月 10 2007
左と右
前-後という方向についていろいろと考えていると、その時点で自分がすでに左右方向から観察の視線を働かさせていることに気づく。というのも、前後方向そのものには、いつも言ってるように延長性が存在しないので、前であれ後ろであれ、そこに線分を見てとるためには、どうしても左右方向からのイマジネーションを介入させる必要があるからだ。もちろん、この想像上の視線が上下方向からのものであっても構わないわけだが、心理的に最も自然なのはやはり左右方向である。
モノの厚みの感覚にしろ、主客の分離感覚にしろ、そして、他者との分離感覚にしろ、この意識に内在している左右方向からの視線が大きな役割を果たしていることは、実際に今、自分の目の前の風景を見ている認識に注意を向ければ、すぐに感じ取れるだろう。
この左右方向からの視線が持った特徴的な働きは、前後方向に生まれていた射影空間の表と裏の「捩じれ」を無効にさせてしまう働きを持っているということだ。どういうことか図を使って説明してみよう。
上図を見て欲しい。この図は互いに向かい合った状態にある自他それぞれの視野空間と瞳孔の関係を2つの円錐の交差関係で象徴的に表したものだ。視野空間はヘッドレス状態なので外面で、瞳孔の方は内面に当たる。実際には瞳孔は各々2つづつあるが、話を分かり易くするためにここでは一つで表そう。この円錐図の解釈には人間の外面から見た対応と内面から見た対応の二通りの対応のさせ方があるが、ここでは、分かりやすく内面から見た対応で解説したい。
今、円板Aをわたしの視野空間とする。わたしの視野空間の中心点B*に他者の瞳孔が映し出されている。一方、円板A*は他者の視野空間であり、その中心点Bにはわたしの瞳孔が置かれている。
この単純な交合円錐のモデルは、前回話した自他が認識している前と後における空間の相互反転関係を端的に表しているのだが、この図の状況自体を観察している視座は、明らかに自他にとっては左右方向から思考されたものである。僕がよくヌースコンストラクション(ヌース理論で使うモデルの名称)などで示す図も同じ視座を意識して描いている。
こうして左右方向に空間認識の視座が出ると、A-B、A*-B*というキアスムで構造化されていた自他間の知覚空間が全く別の関係性を重ね合わせてくることが分かる。それは、A-A*、B-B*という関係だ。この図ではそれぞれブルーとレッドの破線の矢印で表している部分に当たる。この矢印の意味するところは、左右方向からの認識には、自他相互の視野空間同士を同一化させ。同時にその結果として自他相互の瞳孔の位置をも同一化させてしまう働きがあるということだ。
これは実際の知覚で言えば、自他が互いの視野に映し出されている背景空間を共有し合うことによって、お互いを取り囲んでいる天球面が同じ天球面だという認識を作ることを意味する。何のことはない。これは普段、僕らが感覚化している天球面の認識である。そして、当然、このとき、自他の瞳孔も、一つの同一の3次元空間上の二点でしかないという認識が形作られてしまう。つまり、外面と外面*が同一視されることによって、その反映として内面と内面*も同一化させられてしまうということだ。巨大な空間に投げ込まれた人間というイメージはこうして左右方向からの視線によって作られる。
このことは、前-後方向の双対が持った射影空間的な世界からその反転性が見失われ、3次元ユークリッド空間の認識へとゲシュタルト変換を余儀なくされているということに等しい。自他の交通空間としてモノを全面的に覆っていたメビウスの帯状の二重被覆の膜は見えなくなり、おなじみのプレーンな2次元球面の認識が形作られてしまうわけだ。僕らの認識にモノ=物体というものが、立体的なかさばりとして感覚化されてくる原因も、この左右方向からの視線の介入によるものと考えていい。天と地が調和していたキアスム的世界から、天と地の亀裂という由々しき事件がここで起こっているわけである。母子関係に分け入ってくる、父の機能。言語。そして登録。
本来見えない奥行き方向に、僕らは左右からの架空の眼差しを介入させ、そこに奥行きを概念化する。このとき生じるのがいわゆる「延長」という世界である。前-後軸が4次元であるならば、この左右からの視座方向は5次元としか言いようがないものになる。4次元が3次元のあらゆる方向性を一本の線分にまとめた方向として生まれていたように、5次元の方向性も4次元の方向性を一本の線分にまとめたものとして生まれてくる。4次元方向の1本の線が主体を規定していたのならば、当然、この5次元方向の線は無数の主体の眼差しを統合したものになるということは想像に難くない。僕らが持った左右方向からの視座とはまさしく外界に対する客観認識の眼差しとなっていることが分かるだろう。
左右方向が5次元であるというこの突飛な帰結は、僕らの身体の造形にそのまま反映されているような気がする。人間の身体の左半身と右半身の関係をよく観察してみるといい。それらは3次元の中でどう回転させても重なり合うことはない。よく取りざたされるのは、右手と左手だ。これらをぴったりと重ね合わせるためには4次元における回転が必要となる。4次元空間における180度回転とは、いつも言ってるように3次元における内部と外部の反転である。例の左手の手袋を裏返せば右手の手袋になるという内容だ。鏡映はこれを簡単にやってのけるのが分かる。
この反転は今まで何度も言ってきたように、ヌース理論的には自己側から他者側への視座の変換でもある。そしてこのような回転を起こす軸は4次元空間全体を回転させるのであるから5次元に方向を持っていることが予想される。左手と右手はその認識も含めれば(対象認識自体が4次元だったことを思い出そう)、5次元の軸によって回転させられた4次元の表と裏ということが言えるのかもしれない。つまり、これは左右の間にも見えない鏡が垂直に峻立しているということを意味する。これは当然と言えば当然だろう。僕の知覚正面上に向かい合う二人の他者を置けば、両者の視野空間同士もまた反転しているのだから。
ヌースでは左右方向からの認識の矢として生じているこの5次元の方向性を「思形」と呼び、次元観察子ψ9という記号で表す。言うまでもなく、思形とは人間の内面であるψ8を観察する力となる。ψ9の反映がψ10で「感性」である。このψ10は「差異と反復」のところでも言ったように、再び、ψ7に戻され、ψ1〜7の形成プロセスおける「差異と反復」を観察する力となる。精神分析的に言えば、このψ9とψ10は象徴界と想像界の機能を果たすわけである。
それにしても、最初は何が何だか分からなかったが、この「思形」という言葉にぴったりだなぁ。やるなぁ〜、シリウスの連中。あんたらはやっぱりエライ!!
——シケイとカンセイ。人間を構成する二つの軸。人間においては対立する(シリウスファイル19891111)。
身体における前-後軸と左-右軸。こうして光の十字架とも呼べる人間の意識の鋳型が地球上に設置されたことになる。
2月 16 2008
愛と青春の旅立ち
さて。前回図に示したケツァルコアトルの多重の旋回ルートだけど、これをケツァルコアトル自身から見るとどんなふうに見えるか………そう、オカルト好きな人にはもうおなじみだね。ヘクサグラムに見える。それも無限に続くヘクサグラムの回廊だ。このことから、ケツァルコアトルという羽の生えた蛇はカバラで言うところのケテルの中心に配置されている神の眼と同じものだ。つまり、ヌース的に言えば、「4次元空間というものが見ること自体だと気づくこと」。これが、このヘクサグラムの中の眼が見開くことと同じ意味を持つことになるわけだね。
ケテル(神の至高世界)において神の眼が開くと、それは一番下位のマルクト(物質世界)というセフィロトにつながっているために、マルクトにその眼差しが注がれてくることになる。これは、僕が今度の『アドバンスト・エディション』の前書きで、創造の八日目と創造の一日目に起こる新旧二人の神の眼差しの交差と呼んだものと同じものだ。これはプラトン風に言えば、「想起」が始まるということだ。プラトン・フリークだったプロティノスはこれを「帰還(エピストロペー)」と言い換えた。長い間、ヘクサグラムの中に閉じ込められていたカゴメの中の鳥さんが篭の中から解放されて、光の発出が始まるというわけだ。ほら「篭」っていう字をよく見てごらん。笠を被せられた竜って書いてあるだろ。これはわしらのことだよ。巷で次元上昇、次元上昇と騒がれ出しているけど、そうしたアセンション・ブームの背景にはこうした古代思想の源流がもとになっているわけだね。
ヌース理論からナマなことを言わせていただければ、カバラがまずかったのは、ケテルの中の眼を一つしか書かなかったことかな。眼が一つのときは本当は神の眼は閉じてるってことなんだ。つまり、眠っている。ほんとうは眼は二つないと神の眼は開かないんだな。で、眼が一つだとヘクサグラムは神の花嫁の世界、つまりマルクト(物質世界)においては3次元空間として介入してくる。僕が今度の本で3次元を平面に見立てて説明したのもそのへんの意図を持っている。でね、この3次元空間というのは、実はこれって神の睾丸、つまり、キンタマちゃんのことなんだ。そして、このキンタマの中には神の精子がふんだんに詰まっている。へへ、わしだって、まだいっぱい詰まっとるわい。
で、古代の人たちはその神の精子のことを何と呼んだかというと、ロゴススベルマティコス(種子としての言葉)と呼んだんだね。この精子を神は地球というオチンチンを通じてイエソドという月(神の花嫁の子宮に当たる)の世界に流し込みたいって思ってるわけ。
人間の生活におけるセックスとは何の射影なのですか?
オリオンとプレアデスの交差です。
あなたがたの存在そのもののことです。(シリウスファイル)
わぁっ!!差異と反復ぅぅぅぅ。
もう一度言うと、イエソドってのは天体でいうと「月」だ。僕が「女なるもの」とか「ケイブ」とかいつも書いてるやつね。精神世界の人たちがプレアデスと呼んでいるものもこの場所にある。言うなれば、人間の無意識の場所。ニーチェ風に情動の海としての肉体とも言い換えていい。ヌースがいう次元観察子ψ1〜ψ14、ψ*1〜ψ*14、つまり総計「28」の場所=コーラのことなんだ。おっと、ここではヌース原論は控えないとね。
男のタマタマちゃんの中の精子にデキがいいヤツと悪いヤツがいるように、言葉にも当然、受精能力を持っている言葉と持っていない言葉とがある。「ありがと」とか「おかげさまで」とか「君が好き」とか「愛してる」とか、そうした言葉が本心から出たときは、それは神の花嫁を受胎させる能力を持っている。でも、「死ね!!」だとか「うぜぇー」とかにはそれがない。だから、今の世界は不妊症というか無精子症を患っていると言っていいかもしれない。TVとか見てるとそんなのばっかりだもんね。
言葉の汚い、きれいは別にして、この受精能力のあるかないかは、すべての言語の種類の中に反映されている。数学で言えば代数的(関数)なものと幾何学的なもの。関数は「アドバンスト・エディション」でも書いたように数量的な計算機械として機能している。だから、光を持っていない。つまり、月への方向性がないんだ。どこが卵子か分からずに膣の中でウロウロして、結局は疲れ果てて死んでしまう。幾何学は関数とはもちろん深〜い関係を持っているけれども、その本質は全く別もの。幾何学の方には神の純粋なDNAがふんだんに含まれている。数が数量として動いている限り、数は幾何学と合体できない。神道風に言えば、数が数霊として働いたときに初めて、数は形霊としての幾何学と合体できるわけだ。
文系的には律法的言語と詩的言語がそれに対応するかな。律法的言語、つまり、六法全書とか契約書とかに書かれているあの無味乾燥なオカタイ言葉ね。定義がどうだの、公理がどうだの、とこうるさい税務署のオジサンみたいなやつ。ドゥルーズ=ガタリという二人組のstar fuckerたちはそうした言語の機能のことを「登録の生産」と呼んで、これが専制君主機械を作り出すって言ってた。つまり、専制君主機械というのは、大雑把に言えば国家のことだ。前にも言ったように、ここでも玉が囚われの身になってるだろ。数量、カネ、物質、国家、科学、そして近代的理性、これらは全部、セトの機械として連動して動いている。でもこれらが悪者だと思っちゃいけないよ。無意識の進化の必然だ。キリスト教的に言えば、みんな「水の受難」なんだよ。いちど魂は水の中に沈められて、ウガウガ、ブクブク、ゼーゼー、苦しまなくっちゃいけないんだ。これが人間という次元における「負荷」だ。
で、一方、詩的言語ってのは受胎を行うためにはとても重要なものだ。特に詩に使われているメタファー(隠喩)やメトニミー(換喩)ってのは、女なるものが卵巣に生み出す卵子そのものの構造と共振する力を持っているんだ。だから、これらは女の言葉、女の論理と言っていい。だから、メタファーやメトニミーを持たない奴は女を喜ばすことができない。つまり、テクがないわけだ。
あれっ? また、話が訳の分からない方向へ行っとる。神の目の話はまた次回に回すとして、今日のところはちょっとPOPにまとめておこう。
神の花嫁は4次元の扉の向こうで純白のウェディングドレスを着て待ってる。君も「愛と青春の旅立ち」のあのリチャード・ギアのような優しい笑顔で,ずっとずっと待ってた彼女を迎えに行ってやれ。——こここでJoe CockerのUp Where We Belongが流れてくる。。。いいねぇ。いいねぇ(^^)
※「不妊症」とか「無精子症」とか一部不適切な発言があったことをお詫び申し上げます。ヌース理論では、人間のほんとうの存在意義は新しい宇宙の子供を作ることだと思っています。たとえ、不幸にもこの地上でそうした症状に陥ってしまったとしても何も悩むことはありません。毎日を、未知なる子供たちの誕生のために元気よく頑張りましょう!!
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 8 • Tags: DNA, アセンション, オリオン, カバラ, ドゥルーズ, ニーチェ, プラトン, プレアデス, ロゴス, 人類が神を見る日, 差異と反復, 言葉