5月 14 2020
たかが奥行き。されど奥行き。
奥行きを幅と全く等価なものにするものとは、至るところに存在する視点である。
この視点を借りて私たちは知覚野というものを作り出している。
このときの視点が構造としての他者に当たる。
私たちは他者が存在しなければ空間が3次元などと想像することはできないし、物が対象として現れることもない。
奥行きには私と物との関係がダイレクトに息づいている。
それは私の底に生きている別の主体という言い方もでき、私が世界に登場してくる以前からすでに実在していたものでもある。
奥行きにとっては、私とは、他者構造によって浮き上がってきた一つの記憶の形態にすぎない。
本来、奥行きとは、それ自体で、すでに物でもあり、心でもあるのだと考えよう。
そこに立つことさえできれば、思考は永遠の中で運動を始める。
石は凍れる音楽と言ったのはピタゴラスだったか。
ならば、素粒子とは、時空に溶け出してきた時間の結晶のようなものだろう。
創造的思考だけが、再びそれを結露に向かわせる。
空間とは君自身だ。
そのことに君が気づいたとき、
世界に最初の思考(エンノイア)が訪れる。
女神の誕生というわけだ。
5月 29 2020
対化の方向性が変わるとはどういうことか
自分とは何か? ということについて能動的に考えるときは、脳や、DNAや、そういったチマチマとした表象から考えずに、時間全体、空間全体に自分の身を溶かし込んだ場所からスタートすることが大事です。人間は時間や空間の中に生きる存在ではなく、時間と空間として生きる存在だから。そのくらいダイナミックに思考を展開する。それがヌースです。
ヌーソロジーの思考にとっては、時空は次元的には最もミクロな世界です。そして、そこから立ち上がっていくのが内的に広がっていく観察子空間。そして、その方向性が本当のマクロ宇宙。OCOT情報にいう「対化の方向性が変わる」とは、この本当のマクロ宇宙に意識の方向性が向くことを言います。
僕らは現在、時空を受動的にしか経験できていませんが、「対化が方向性を変える」と能動的な時空というもののが意識に経験されるようになってきます。それによって、自然が精神の産物だということがある程度は理解、イメージできるようになってきます。ハイデガー風に言うなら、”内側から泉のように湧き出でる自然(フィシス)”に同調できるようになってくるわけです。
そのスタートラインは何と言っても「奥行き」への感応です。まずは、この「奥行き」というものが対象の一番ミクロの部分と繋がっているとイメージするといいと思います。ヌースでよく言っている「私たちは物の中にいる」とはそういう意味です。
自分が物の外部にいて、「そこからものを見ているのだ」とする従来の対象意識は、他者に見られている空間側で意識がシステム化されていることにより生まれています(ヌースでは「付帯質の外面」という)。でも、見ている空間にいる自分側は、奥行きとともに本当は物の中にいます。そういう感覚が芽生えてくるのがトランスフォーマーの初期的な感覚です。
偶数系観察子が先手か、奇数系観察子が先手かというのはそのような両者の意識の方向性の違いとして把握されてくると考えて下さい。「対化が方向性を変える」とは、奇数系観察子が先手を取るように働き始めることを意味しています。ヌースの文脈では、存在におけるその方向展開はもう始まっています。
そこから奇数系観察子が何を行っていくかというと、人間の経験的な意識の在り方をその裏側で条件づけている裏側の自分(ヌースでは「人間の反対」と言います)の意識、つまり無意識(魂のようなものと考えてよい)を空間の中に露わにさせてきます。それがヌースが”顕在化”と呼んでいる出来事です。
“顕在化”が露わにさせていく空間のルートは、素粒子のシステムが持っている空間のカタチに対応しており、それをリアルなものとして反-現実化(人間の現実とは方向が逆だということ)させていくための思考装置が先日来ご紹介している「ヘキサチューブル」だと考えるといいでしょう。
ヘキサチューブルは、マクロ宇宙へと意識が歩みを進めていくために、文字通り、その回廊(チューブル)を開いていくことになってくると思います。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 14 • Tags: OCOT情報, ハイデガー, ヘキサチューブル, 奥行き, 素粒子