ヌーソロジーが見ている「ある」「いる」「なる」の関係

素粒子というのは、対象として見ようとするから、あたかもミクロの世界にあるようにイメージされているだけで、本当は時空全体に重なるようにして存在しているものなんだよ。だって、奥行きってそういうものでしょ。ねぇ。
となると、見方を変えるなら、素粒子(奥行き側)から時空ができているって考えることもできるわけだよ。ヌーソロジーはそういう認識を作り始めているわけ。
奥行きは僕らの内在(持続)の場所だといつも言ってるわけだよね。ならば、もし、この奥行きとしての持続側から時間と空間が生まれている現場が意識に見えてきたら、外の世界なんてものは消えるだろ。
主観性の原理というのは世界を時間と空間の中で対象化するところに生まれているわけだから、この原理を乗り越えるためには、別の原理を対抗させるしかなく、この別の原理というのが、このように時間と空間を自分自身の内に見る生成の原理というものなんだよ。
この生成の原理の世界では、見るものと対象はもう分離することが不可能になる。それが「なる」の世界なんだ。
本当はこの「なる」の世界が”宇宙(存在)”と呼ばれるべきものなんだけど、僕らはどういうわけか視点を他者側にそっくりそのままひっくり返して宇宙を幅で見ちゃっているので、「なる」の世界が「ある(物質)」の世界に凝結してしまっている。
僕らがこの「ある」の全面的な専制になかなか馴染めないのも、「なる」の世界側からの呼び戻しの声が一人一人の心の中に響いているからだと思うよ。その声をしかと聞いているからこそ、僕らは「人間が世界に”ある”」とは言わず、「人間は世界に”いる”」と言うんだね。
「いる」ものの世界が「なる」ものの世界へと開く時代がやってきている。多くの人が奥行きに自分の心を感じ始めれば、「なる」の季節の到来はあっという間だと思うけどね。
ヌーソロジーでいうところの「ある」「いる」「なる」の関係、少しは伝わっただろうか。。

「なる」の季節の到来