11月 28 2005
アートではなく芸術を!!
カフェ・ネプ(ヌースアカデメイアの掲示板)に書いたコメントだったけど、もっと長く書きたくなったので、こっちに移動——日本で芸術という言葉がアートというカタカナ言葉に置き換えられ頻繁に用いられるようになったのはいつ頃からなのだろうか。1960年代のカウンターカルチャー当たりからなのか、それとも70年代の高度成長期における企業のマーケット戦略からなのか、よくは分からない。だが、個人的には芸術とアートには明確な区分をつける必要があると思っている。
以前もブログに書いたが、芸術とは、知覚や情動といった生きる人間に固有の実存的体験、もしくは現実的経験を他者へと伝達、伝播させるための非言語的なコミュニケーションの手段と言える。たとえ文学においてもそこで表現されているのは言語の奥に秘められた非言語的な何物かである。芸術は言語として開示した世界から、再び言語を乗り越えて展開、転回していく人間の無意識の突端に息づく生あるものの顕現であり、それゆえに、芸術それ自身は自然からつねに超出し、自然なるものの始源への回帰を絶えず試みようとする存在の原型的営みである。O・ワイルドは「芸術が自然を模倣するのではなく、自然が芸術を模倣する」とまで言い切った。要は芸術は人間世界に現れた神の欲動なのだ。だからこそ、芸術は宗教や哲学をある意味軽く超えているのだ。いや、そうしたものでなければ所詮、芸術とは呼べない。
果たして、現在、アートと呼ばれているものの現状はどうか?はっきり言って「クソばかり」と言いたい気分はある。クズのような芸術作品を指してジャンク・アートという言葉があるが、実際のところ、アートという呼称自体がジャンクと化した芸術の別称なのだ。その証拠に、小説にしろ、詩にしろ、絵画にしろ、音楽にしろ、現在メディアに送り出されているほとんどの作品がナルシシズムの中に耽溺した自我表現に終始してはいないか。自然回帰も結構。君の物語も結構。抽象も結構。退廃も結構。脱構築も結構。しかし、それは君のごくごく表層で生起している近視眼的風景にすぎない。存在はそう簡単にその本性を見せはしない。もっと潜らなくてはだめだ。自身の生の根っこを全部引き抜いて、その奥で蠢く地下水脈の巨大な流れに触れるのだ。
芸術作品から発せられる光は黄金の輝きを持つものだ。なぜなら黄金のみが唯一、闇を経験した光を持つものだからである。自然の光は人為が及んでいないという意味において闇を知らない。芸術が自然よりも偉大な理由は、それが一度闇を経験し、その闇の中から再び、光の中へと立ち上がる術を心得ているからにほかならない。芸術が黄金的価値を持つ所作であるとすれば、アートは紙幣的価値しか持たない。つまり、それは黄金を偽装する偽金作りなのである。その意味で、アートという言葉は、もはや真の芸術を提供できなくなってしまった作家たちの自己正当化のための逃避のジャンルとも言える。似非錬金術師たちよさらば。アートではなく今こそ芸術を僕らの手に奪回しよう!!
3月 7 2006
zavtone、再始動?
今日、懐かしい人物からメールがあった。90年代、日本で一番トンガッタ雑誌ではなかったかと思われるzavtone誌の編集長zato氏からのメールだ。zato氏の別名はGENERAL IDEA OF DIPLODOCUS(ジェネラル・アイデア・オブ・ディプロドカス)。すごすぎ。。。
zato氏紹介のサイト→
http://www.harmonium.jp/works/works.html
zavtoneは1997年から約3年間発行され、2000年廃刊にになった。それまでの雑誌の常識を覆し、ほとんどのページがCGグラフィックや写真で埋め尽くされたグラフィクアーティストたちのセッションフィールドのような場所だった。そのラディカルなスタイルは日本でのその後のトランスカルチャーの動向に多大な影響を与えたと聞いている。
わたしが最初にこの雑誌に遭遇したのは処女作の「人類が神を見る日」を持って、書店回りをしているときだった。全ページにわたってサイベリア的なハイパーリアルなグラフィックが4色刷りで網羅され、一見しても何の雑誌だか分からない。しかし、グラフィックの完成度は極めて高く、60年代後半のサイケデリックを90年代のデジタルテクノロジーでそのまま再生させてきたような異質なライブ感を持っていた。スキゾフレニアックな色使い、ブレイクビーツでたたみかけるその編集手法。エディトリアルセンスの斬新さに完全にKOパンチを食らった。
「こりぁ、カッコええわ。ヌースもこういう露出で行けたら最高やなぁ〜」と思っていると、しばらくして、友人の高橋徹氏からウソのような連絡が入った。
「zavtoneが半田さんの「人類が神を見る日」を英訳で連載したいと言ってますよ。」
zavtoneのグラフィックデザイナーたちは半数以上がアメリカ西海岸の連中らしく、zavtoneは数千部単位でアメリカの書店でも売られているバイリンガルマガジンだったのだ。高橋氏はすでにマヤ暦関連の記事をzavtoneに提供しており、その関係で、高橋氏経由で連絡が入った次第。
それがきっかけで、zato氏と知り合いになり、zatoセンスを気に入っていたわたしは「シリウス革命」の装丁デザインを全面、zato氏に委ねることに。シリ革をお持ちの方は是非、確認してほしいのたが、出版元の名称(たま出版)が超微視的サイズで配置されているのが分かるはずだ。これがいわゆるzavtoneセンスである。文字はデザイン構成内部のラインと見なされ、グラフィックデザインに沿ってレイアウトされる。たとえテキストの内容が読みづらくても知ったこっちゃない。まぁ、当時も、zato氏は周囲から、テキストが読めない。年配者を考慮しろ。などいろいろな批判を浴びていたようだが、ガンとして自分のポリシーを貫き通していた。雑誌においてテキストはデザインの一部にすぎない——まさに、アンチオイディプスを地でいくような大胆な発想。古い神にはもう手の付けられない不良息子である(笑)。
そんなzato氏であったが、「人類が神を見る日」のテキストに関しては、文字を心持ち大きくレイアウトしてくれていた。zato氏曰く「これはテキストが生きているから。。」その言葉がとても嬉しかったのを覚えている。
さて、zato氏からのメールの内容についてだが、それはこのブログで公表するにはまだ時期尚早だろう。まぁ、何らかの仕掛けをzato氏が依頼してきたということのみに止めておく。いずれにせよ、嬉しいコンタクトだった。新生zavtoneの始動に期待しよう!!
By kohsen • 06_書籍・雑誌, 08_文化・芸術 • 8 • Tags: アンチ・オイディプス, シリウス革命, 人類が神を見る日