Orとしての光

前回の記事を巡って、物理学者の佐藤さんが反応してくれた。
 
@kohsen S氏がうまく言い当てているように、内部空間の回転には「i (虚数)=愛」があるが、外部に反転させられた擬回転にはこの肝心の「i」が欠如している。「i」の欠如は、実体を欠くという意味でもあるだろう。ベルクソンのアインシュタイン批判を思い出す。
 
@satohakase 「アイ」があれば回転(e^iθ)になりますが、「アイ」がなくなれば爆発的増加(e^θ)または減少となるわけですね。自他の分断。
 
@kohsen ですね。佐藤さんはローレンツ変換における観測者とは何者だと思われますか?
 
@satohakase 時空ですから観測者が内部に投げ込まれていると思います。
 
@kohsen ベルクソンのアインシュタイン批判のポイントはそこにありました。時空内部に投げ込まれた観測者が果たして世界を観測(認識)することなどできるのだろうか、と。
 
@satohakase そうですね。時空においては観察者であるわれわれの「眼」がつぶされていますね。複素数(虚数)の意味を科学者は全く理解していない。
 
@kohsen 時空にばかり囚われていて、精神の位置が光速度不変の原理となって表現されていることに気づいていないんですよね。残念です。
 
@satohakase ニュートリノが光速度を超えた、というのはニュースになりますが、光速度不変の原理については思考停止状態で誰も突っ込んで考えようとしないのは残念なことですね。
 
――物理学の光から、眼差しとしての光へ
 
 肉体の周囲に満ちている光は外部の光だが、同時に内部の光でもある。それはまたわたしの男なるものの部分と女なるものの部分と言い換えてもよいようなものだ。
 
 ユダヤ教のミドラーシュでは、光を表す「Or」が皮膚を表す「Or」に変化していったとき、ジェンダーの原初的分裂が起こり、女性という存在が生まれてきたと説く。
 
 この「Or」とは有機体=OrganのOrのことでもあるのだが、同時にそれは英語の『~か、”もしくは”~か』というときの「Or」の意味を併せ持っている。
 
 つまり、光とは二つの領域にまたがる反復を司るものであるということだ。またそれが皮膚の機能にほかならない。
 
 光とは存在の皮膚である。それは世界を包む光である同時に、世界に包まれた光でもある。光速度をわたしたちの精神の位置へと反転させることが必要だ。あの虚ろなルドンの目玉もアフロディーテの美しさを間近で見れば、目が覚めるだろう。

 
 下の作品はルドン『キュクロプス』(1914年)

キュクロプス