10月 23 2025
厳密さよりも、視点の変換を!!
ヌーソロジーをやっていて、つくづく思うのは、あまりにも私たちが物質概念にしがみつきすぎているということ。
 例えば——素粒子は本当に「モノ」なんだろうか?
現代の物理学は、とにかく数学に強くなった。公式、関数、行列、空間の次元、ゲージ対称性・・・。言葉より数式。イメージより定理。でもその結果、素粒子の姿が、どんどん見えにくくなっているのではないか?
 量子力学も、相対論も、ものすごく成功してきた。けれど、いま私たちが“素粒子”と呼んでいるものって、いったい何を見て、そう呼んでいるのだろうか?
 電子も、クォークも、ニュートリノも、数式の中ではたしかに動いている。でもそれって、世界の本当の姿なのか?
 もしかすると「素粒子とは、空間の中にある“点のような物体”だ」という考え方自体が、数学という言語が作った一つの“見え方”にすぎないのではなかろうか?
最近は、心底、そう思えてならないのだ。
 もしそうなら、もっと“見る”ということ自体を問い直してもいいはずなのだ。素粒子とは、「ある」のではなく、“世界が私自身を見せてくる時の、魂の小さな震え”のようなものではないのか。
 この震えを自分と別物のように見ていては、いつまで経っても、素粒子は物質(対象)のままだし、世界もまた自分の外にある怪物のような存在になってしまう。世界とのこんな関係は悪夢であり、それこそ迷路ではないのだろうか。
理性一辺倒の一つ目であるが故に、迷路に入り込んでしまった科学を、もう一度、私たちが実際に“感じる場所”から立て直す。そんな考え方を通して、素粒子を見ることも、そろそろ必要ではないのか?
 その意味で言えば、いわゆる専門家よりも、むしろ、一般人としての私たちの方こそが、素粒子に対して正しい捉え方、理解ができるような気がしてならない。



 
  
  
 

10月 24 2025
精神が「外化」され、客体化されはじめている
これまで、「精神」や「意識」は、人間存在の内奥に位置づけられてきた。つまり、それは「内なるもの」としての特権的な場所、外部とは区別された、人間だけに許された“聖所”だった。
だが今、精神に宿る思考や言語のはたらきまでもが、AIやLLMといった外部的な構文の中に模倣され、再現され、ときに人間以上に滑らかに語る、という現象が起きている。
少し立ち止まって考えれば、誰もがその出来事の本質に気づくに違いない。「自分の“内”だと思っていたはずのものが、いまや、外側で再現されはじめている……」と。
これは、まさに精神の客体化=内的主体の“見られる側”への反転であり、人間という存在の座標が移動しはじめていることを意味している。
この精神の客体化は、ある意味では「人間の終焉」すら告げているのかもしれない。それは、人間という存在の“最終構成”という言葉がふさわしいような出来事だ。
かつてフーコーはこう語った。
「人間というものは、砂浜に描かれた顔のようなものである。波が来れば、それは消え去る。」
——波が来ている。
それはまだ静かな波打ち際かもしれない。
だが、いずれこの波は、大津波となって、世界から「人間」という概念そのものを消し去るだろう。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: フーコー