ヌーソロジーの思想史的ポジショニング

ヌーソロジーは思想史の流れの中で見れば、ポスト構造主義の系譜に連なる独自の位置を占めている。

20世紀後半に登場したポスト構造主義は、デカルト以来の「主観と客観」という二分法を問い直し、言語やテクストの構造を通じて人間と世界の関係を再定義しようとした。しかし、その試みはしばしば物理学や数学を比喩的に取り込みすぎ、1996年のソーカル事件によって「科学的厳密さを欠いた知的ファッション」と批判され、20世紀末には急速に勢いを失っていった。

その後、21世紀に入ると分析哲学や言語哲学が力を増し、AI研究や情報科学の発展も相まって、言語や論理の分析を基盤とするアプローチがアカデミズムの主流となった。現在の日本でも、多くの哲学研究はこの潮流の影響下にあるように見える。

そうした中で、ヌーソロジーは極めてユニークな立ち位置を示している。大陸哲学が長年培ってきた「存在と意識」の根源的な問いを放棄せず、それを物理学や数学の構造と結びつけることで、ポスト構造主義が果たせなかった「科学との接続」を真正面から試みているのである。

このアプローチは、オカルティズムや神秘主義のように物質と精神の直感的な一体性を語るのでもなく、分析哲学のように言語の使用規則を精査するのでもない。その代わりに、意識そのものを観察子構造として捉え、量子力学や幾何学に対応づけながら「主客一致の論理」を具体的に描き出す。ほとんど類例を見ない路線だ。

僕自身、ベルクソンやドゥルーズといった存在論的自然哲学者を好んで読んできたこともあって、ヌーソロジーを「ポスト構造主義の嫡子」であると同時に、科学的厳密さを伴った新しい形でその問いを再生させる存在ではないかと思ってる。

要するに、ソーカル事件によって凍結された大陸的思考の空白を埋め直し、同時に分析哲学では触れられない「存在と世界の構造」を高次の知覚として可視化する試みとでも言おうか。従来の哲学・科学・神秘主義をも軽やかに横断する、従来の思想のあり方自体に対するゲームチェンジャーのように感じている。