10月 26 2018
内なる宇宙は絶対的中心を持っている
絶対的中心の発見―これはヌーソロジーの空間認識に入るための鉄則だね。
人間の外面が顕在化を起こすことは、この絶対的中心が意識に上がってくることと同意。絶対的中心の浮上は「精神の外化」と言い換えてもいいね。外に内が見えてくるということ。ヌース用語で言うなら、「垂質」が作り出すもの。垂質とは4次元の意に近い。
絶対的中心の位置は、例の「観点の球面化(キットカット缶の回転)のワークで見出される中心点のことだが、裏を返せば、あのワークは無限遠点(主体の位置)を一つの球面としてイメージさせるためのワークにもなっている。
絶対的中心点とその球面として感覚化されてくる無限遠点―ここにおいて見出されてくる球空間は、数学的は3次元射影空間と呼ばれるものと同型になっている。
3次元射影空間は下図のような空間としてイメージするといい(下図2番目)。図では一点でしか接していないが、この空間は二つの球空間が互いにその表面でくっつきあったような形をしている。観点の球面化を起こした自己と他者の関係を表した空間と言っていいだろう。ヌース用語では「垂質の対化」と呼ぶ(右の球体の中心点はOではなくO*に訂正)。
この垂質の対化の位置をヘキサチューブルで表現すると下図3番目のようになる。垂質の対化は二つの正四面体が交差する正八面体が骨格になって作られているのが分かる。
わたしたちが普段、表象している3次元空間の方はその下のψ3~4に内接する正八面体に対応している。階層が一つ下だ。
ところで、ここでいう「垂質の対化」というのは、先日、「魂の反撃のために―追記3」のところで紹介した球体と同じものと考えて構わない。あの図(下図最後)では、人間の内面側に生まれている空間を二次元双曲面に対応させていたが、観測者の自転(この自転が球面の形成に当たる)の自由度を考慮すれば、これはそのまま3次元双曲面となって「時空そのもの」を表す。人間の内面側は、いわゆる自分原点とした後ろの空間の広がりのことだ。
こうして総合的に構造が見えてくると、私たちの現在の空間認識においては「前(奥行き)」が全く意識化されていない―というヌーソロジーの問題提起の意図が、皆さんにおいても徐々にハッキリしてくるのではないだろうか。というか、そう願っている。
このように、ヌーソロジーが語る高次元認識とは、決して巷にいう超能力や霊能力のような類いのものではない。誰でも、ある一定の思考の手続きによって作り出せていけるものだ。そのあたりをくれぐれも間違えないように。








10月 29 2018
持続という概念を育てるための2冊の本の紹介を兼ねて
先週、本屋で一冊の本を仕入れてきた(下写真上)。
『ベルクソン=時間と空間の哲学』中村昇
ヌーソロジーによく顔を出す「純粋持続」というタームがあるが、このタームの解説に特化されたベルクソン本だ。ベルクソンの一般向けの解説本はたくさんあるが、とにかく、この本、「純粋持続」に的が絞られていて、とてもいい解説書になっている。ヌーソロジーがやろうとしていることがより一層分かるようになる本ではないかと思う。
ベルクソンの概念を通してヌーソロジー風に「物質の三態」を挙げるなら、
1.物質とは瞬間である。
2.物質とは記憶である。
3.物質とは持続である。
ということにでもなるかな。
1.は時空上の物質―無に等しい
2.は知覚上の物質―イマージュ
3.は内在としての物質―精神と同意
ベルクソンは3.までは語っていないけど、ドゥルーズは3.を見ていた。ヌーソロジーは3.しか見ていない(笑)
ベルクソン=ドゥルーズの系譜に倣って、僕らはもう一度、記憶(持続)について深く考えるべきだと心の奥底から思う。多くの人は記憶が脳の中にあると思っているようだが、事実は真逆であり、記憶の中に脳がある。さらに言うなら、それを言明している僕自身もまた記憶の中にいるのだ。じゃあ、それは、一体誰の記憶なのか?―ということになるのだが。そこんとこで思考しているのがヌーソロジーだと思っていただければよい。
つまり、人間の内面の意識が先行して働いているときは、人間の外面は「自我」によって領土化されているが、人間の外面の意識が先行する顕在化の次元にあっては、意識の絶対的脱領土化が起こり、思考は自我には回収されなくなる、ということ。そのような「構え」が必要だ。これは、一種の禊(みそぎ)だろう。ヌーソロジーは実は禊の思考でもあったといわけだ。
その意味で、ヌーソロジーがいう「変換人」とは自我の自己同一性から溢れ出てくる「別人」と考えた方がいい。ヌーソロジーが「ヌーソロジーは生活には役立たない」し、「そのような動機を持ってヌーソロジーをやっても意味はない」といつも言ってるのも、この「別人」を強く意識してのことだ。
ただし、この「別人」の存在の気配が既存の自我に対して、圧倒的な希望として働くことはあるだろう。かつ、自我の軸を揺るぎないものとし、自我の確立を促すことも。
さて、「純粋持続の思考」のヒントになるような本は少ない。OCOT情報との兼ね合いで、最も参考になったのは『ベルクソンの哲学』というドぅルーズ本だ。先のベルクソンの入門本で、ある程度、純粋持続の何たるかを理解できたら、この本に進むのをオススメする。哲学書だが、ヌースをすでに知っている人は、結構読めるはず(下写真下)。
たとえば、こういうことがサラリと書いてある。
「知性は物質の認識であり、物質に対するわれわれの適合を示し、物質にならって作られるが、それは精神または持続のため、知性が物質を支配できる緊張の点において、物質の中に入り込むためにのみなされるのである。」―P.97
「物質と知性にはただひとつの同時的発生しか存在しない。ひとつの歩みは両方のためのものである。知性が物質の中で収縮するのと同時に物質は持続の中で弛緩する。」―P.98
「持続は物質の最も収縮した段階にほかならず、物質は持続の最も弛緩した段階にほかならない。しかしまた持続は能産的自然のようなものであり、物質は所産的自然のようなものである。」―P.103
ヌーソロジーの論の組み立ては、このベルクソン=ドゥルーズ由来の持続概念を、「奥行き=虚空間」として場所化しただけのものだと言っても過言じゃない。それによって、物理学(実在論)と哲学(観念論)を結びつけることのできる強靭な存在概念が立ち上がってくるということだ。
「奥行き」が重要なのは、それが私たちの意識にとって表象を受け取るものの場所であり、かつ、表象を与えるものの場所にもなっているからだ。奥行きは「存在の芯」なのだ。量子物理学が差異「i」を巡って展開されるのも、奥行きが精神の巻き込みと、物質の繰り広げの蝶番を担っているからと考えよう。
つまり、奥行きを挟んで、片方(幅化した奥行き)に世界の外部性が生まれ、片方(幅化を逃れた奥行き)に世界の内部性が生まれているというわけだ。
そして、この両者を合わせ持っているものが、存在の黄金分割点(重心)としての「わたしの身体」なのである。
By kohsen • 01_ヌーソロジー, 06_書籍・雑誌 • 0 • Tags: ドゥルーズ, ベルクソン, 奥行き