10月 15 2018
魂の反撃のために
今回も手を変え、品を変え、しつこく行きます。この根本のところに気付かないと人間は絶対に変われんよ。空間の見方がおかしいんだよ。知覚野自体が他者に従属しすぎ。ヌーソロジーを通して見える本来の空間の情景を別角度でもう一度。まずは、前と後ろの区別をはっきりさせよう(下図上)。
今挙げた図を物理学的に表現すると次のようになっている(下図下)。
今の僕たちは知覚背面だけで世界を構成しているんだよ。自分がグルッと自転したとき、その全てを知覚背面(双曲面)で覆ってる。青い玉の存在に全く気づけていない。この玉が君の内在性の拠点。ヒルベルト空間だね。
君の記憶のすべて、そして「君」という記憶もこの玉の中に詰まっている。つまり、この玉は「たましい」なのだ。
さぁ、魂の反撃を開始しよう。
僕らはこの浮上した「たましい」のもとに、思考の場所の革命を起こさなくてはならない。






10月 17 2018
魂の反撃のために―追記
シュタイナーは前から後ろへの流れを感覚体、後ろから前への流れを感覚魂と言ってるね。つまり、人間の外面側から内面に向かおうとする流れが感覚体、一方、内面側から外面に向かおうとするのが感覚魂ということになる。接点がもちろん肉体(特に頭部)。
この二つの領域の差異が最も端的に現れているのが、シュタイナー的に言うなら運動感覚。青い玉は持続空間なので「いつでも今、どこでも此処」状態。つまり、非局所。赤い空間側は時空なので、観測者はそこで動ける。でも、それを感じ取っているのは青い玉側というカラクリ。
非常に面白いことに、目をつむると赤い空間の勢力が弱まる。目をつむった空間は実は青い玉の空間の中なわけだね。実際、目をつむって歩いたり、走ったりしてみるといい。運動感覚が一気に弱まるのが分かる。物理的に言って、光と時空は切っても切れない関係だけど、感覚上でも深く結びついている。
あと、自分が「生きている」という実存感覚も、もちろん青い玉が提供してきている。シュタイナーでいうと生命感覚の範疇に入るのかな?意識を赤い空間側ばっかりに傾けて生きていると、生命力が減退し空虚な感覚が芽吹いてくる。
関係ないけど、先日、アレサ・フランクリンが亡くなったそうな。彼女の歌声には思い出が多い。
―ずっといつまでも 貴方はこの青の空間の中にいる……
ということで、Aretha Franklin – I say a little prayerをお聞きください。
By kohsen • 01_ヌーソロジー, 07_音楽, シュタイナー関連 • 0 • Tags: シュタイナー