9月 7 2018
「外に見えているものは内」を当たり前の感覚にしていくために
量子論を通じて超越論的なものの幾何学的構成を思考するということは、〈明晰で-混雑した〉ものの力を用いて、《理念》を〈判明で-曖昧な〉ものとして思考するということに等しい。これは経験的なものが存在を開示するに当たっての絶対条件ではないかと感じる。ヌーソロジーのアプローチがコレ。
この場合、〈明晰で-混雑した〉というのは、時空と内部空間を一緒くたに思考しているということに当たる。一方、〈判明で-曖昧な〉というのは、内部空間に限って言うならその構成は判明なものであるものの、延長認識からすればトポロジーとしてしか表現できないことを意味している。
もちろんトポロジー知覚が即存在の開示にあたるわけじゃないだろう。それはあくまで下地作業として考えるべき。現在のわたしたちが3次元を空間知覚のベースにして様々な意味の場を派生させているように、今度はその高次のトポスをベースにして、高次の意味の場を派生させていくということ。
量子構造の無意識構造への置き換えは、そのための基礎だということ。
構造と言っても、勘違いしていけないのは、これはズレ(対称性の破れ)からもたらされたものであるということ。だから、構造を見出すということは、ズレを見出すということであり、このズレの双方向を見出すことによって、構造はすべて消滅するはずだ。それが「光」を作り出しているものの正体だと思われる。
その境域をヌーソロジーは「真実の人間の精神」と呼んでいる。
〈明晰で-混雑した〉概念の代表格が粒子の運動量という概念。粒子の運動量は波動関数を位置xで微分し、-ihを掛ければ求められ、予想された確率通りにそれは計測される。いたって明晰な記述だ。しかし、そもそも粒子の運動量とは何なのか―これは逆に至って曖昧なものだ。
粒子は物体ではないのだから、実は運動などしていない。粒子に運動のイメージを与えること自体、存在を無理矢理、存在者の形式(時空的尺度)へと引きずり込んでいるようなものだ。エネルギーも同様。本来は、運動量もエネルギーも、純粋な内包、つまり、精神の力なのである。
量子の挙動は外の世界にあるものの理屈(古典論)に全く合わないのだから、それは外にあるものじゃないんだよ。ただ、それだけの話。それを、相も変わらず外にあるものとして考えようとするから、明晰だけれども、混雑したものになる(複雑化した数式等)。それは、外に見えている内なんだよ。
だから、当然、物質世界の全体性も実は外に見えている内ってことになる。シュタヌー本に書いた「物質とはノスから見たヌース」という内容もそういう意味。外がそのように見えてきたとき、忘却されていた「存在」が戻ってくるってわけだね。





9月 10 2018
地球の内部にあるほんとうの地球について
まずは、台風21号と北海道胆振東部地震で被害に遭われた方に心よりお見舞い申し上げます。とともに一日も早い復興をお祈り致します。
………………………
OCOT情報は地震の原因について次のように言う。
地震とは。
総体的な中和を持ったものが変換を起こすときに生み出される力。
火山とは。
変換作用そのもの。噴火とは方向性がないものを方向性があるものに変える力の反映。
(シリウスファイル19921010より)
台風については聞いてはいないが、次のような情報はある。
高気圧とは人間の意識の内面の方向性、
低気圧とは人間の意識の外面の方向性。
ということは、台風とは内面化(物質化)しすぎた意識を外面(精神方向)へと変換する調整のようなものとして解釈できる。実際、台風は「巻き込む」わけだし。
となれば、古来よりの「人心乱れれば、天地乱れる」という言い伝えにも、それなりに根拠があるのだろう。地球と人の心は人知が及ばないところで、何らかの形で繋がっているのだ。
そう言えば、外宇宙にロマンを持つ人たちには誠に申し訳ないのだが、OCOT情報は、人類が地球を飛び立ち、遠い星々に旅する時代なんてものは決してやってこないとも言っていた。外宇宙とはそのすべてが地球の内部の影のようなもので、人類が向かうべきは地球の内部なのだと。
と言って、ここで、一昔前の大衆オカルトが言っていたような「地球空洞説」のようなものをイメージしてもらっては困る。アガルタやシャンバラの本質は物の内部への侵入の意であり、その意識に見えている地球のことを言う。OCOT情報にいう「方向性があるもの」とは、そのような意識の力の意だ。
では、真のシャンバラへの視力はどのようして到来してくるのか——。
そのためには、まずは、世界を「物」の内部に変えないといけない。OCOT情報ではこうした意識領域のことを「付帯質の内面」と呼んでいる。空間を持続として見なす意識が働いている領域だ。奥行きが覚醒した空間と言える(※人間の意識の外面に当たる)。
一方、人間の経験的な意識領域の方は「付帯質の外面」だ。こちらが「物」の外部世界(※人間の意識の内面に当たる)。おなじみ、空間を延長として見る意識が働いている領域だ。今の人間は付帯質の外面の意識が先手で働き、付帯質の内面の意識の方は後手に回って潜在化し、外面と内面の間で反復している。要は現象界と潜象界の関係だ(下図参照)。
この付帯質の内面領域で活動しているものは、哲学の言葉で言うなら超越論的意識というものだ。人間の経験的意識を可能にしている経験以前の何か、ということになる。カントに倣って言うなら、私たちの意識に直観、構想力、悟性、理性、判断力、統覚といった諸能力を与えているものということになる。
ヌーソロジーでは、この潜在化した付帯質の内面で超越論的意識の構成を行っているものが素粒子だと考え、その空間構造をわたしたちの認識に引っ張り出そうとしていると思ってもらえばいい。そして、それは付帯質の外面側から見れば、物の内部としか言いようがない世界になっている。
カント以降の哲学は、そのほとんどが、物自体は存在しないと言い切るが、そんなことはないだろう。ここに示すように、経験的なものと超越論的のものの相関性自体が物自体の世界の始まりとしての、素粒子自体のことなのだ。そして、ここが地球の内部への入口になっているのだろうと思う。
ヌーソロジーが「シリウス」と呼んでいるのは、この「付帯質の内面」の世界のことだ。つまりは、ヒトの元止揚空間Ω7〜8(顕在化した次元観察子ψ1〜14の世界)。どうか、科学的宇宙観が入り混じった変な宇宙人話とごっちゃにしないように注意してほしい。
シリウス神話で有名なドゴン族の儀礼において朗唱される神アンマへの感謝の言葉——「アンマはひとつ。それは14の空間。アンマの名を唱えることは空間をひとつに保つこと。アンマの名はすべてのものを保ち守るもの」(M・グリオール、J・ディテルラン『青い狐』より)
ヒトの元止揚空間は「14」の空間からなっている。そして、OCOT情報はこの領域を「次元」と呼んでいる。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: OCOT情報, カント, ドゴン, 大系観察子, 素粒子