4月 22 2016
ドゥルーズ以外の哲学者の本を読むのは久々
現在、哲学界で話題になっている本、メイヤスーの『有限性の後で』をとりあえず読了。哲学のテクニカルタームが頻出してちょっと読みにくかったが、論旨はどうにか追えた。Amazonでポチッたのは失敗だったとまでは言わないが、果たしてこの本が巷で騒がれているほど価値のある本かというと「 ………? 」。
ただ、メイヤスーらが展開し始めているこの思弁的実在論とやらが、哲学界に物質に対する思考の再開を迫る契機になるのであれば、それなりに評価されていい本なのかもしれない。
メイヤスーの論旨はとてもシンプルなものだ。一言でいうなら、超越論的なものと科学的なものの折り合いをどうつけるか、ということなのだろう。カント以降、哲学は一つの超越論的なものの準拠枠に則って思考を進めてきた。
つまり、世界がこのようにあるということは人間の意識とともにこのようにあるのであって、人間の意識を除外したところにある世界=もの自体については、思考は何も言えない。「語りえぬものの前においては沈黙せよ」というヴィトゲンの物言いもまた、この理性の権利の使用の限定を意味するものだった。
メイヤスーはカント以降の哲学が持ったこうした思考の在り方を相関主義という言葉で括って、この相関主義の縛りを解いて相関主義の外部にある「物自体」の方向への思考の可能性を論理的に示唆していく。そのトリガーとなってくるのが科学的世界観による数理で語られているところの「物自体」の世界だ。
この世界の有り様を、外部の何ものかによって必然化することはできない。相関主義はそれを固く禁止している。しかし、科学主義はそれこそ人間が存在する以前の世界のみならず、人間がいなくなった後の世界についても、平気で論を立てるし、現代の常識人たちはまたそれが正しいものだとも考えている。
「語れないもの」=「絶対的なもの」を超越的に語る信仰主義と事実的に語る科学主義。相関主義はこの両者の間に立って、人間の思考がそのどちらの極に走るのも禁じているわけだが、どちらを相手にするにせよ、相関主義の口からは絶対的なものの世界が存在しないと断言することはできない。
言い換えれば、哲学は宗教と科学それぞれに語る「物自体」の世界の在り方をうやむやにしてきたとも言えるわけだ。しかし、時代の要請がこのオブスキュアな状況を打破することを哲学者たちの無意識に要請してきているのだろう。
哲学に内在するこうした「有限性」の檻を何とか越えていくために、哲学自体がこの種の絶対性の厳密な規定をどのように考えればよいか――これがメイヤスーの問題提起だと言っていい。
メイヤスーの指摘で個人的に一番面白かったのは、「相関性こそが真の唯一なる即自的なものである」と仄めかした部分だ。ひょっとすると、超越論的なものこそが「もの」自体である、ということを言いたかったのかもしれない。
ここから一気にドゥルーズの物質論と接続していくのではないかと期待を持って読み進めたのだが、ドゥルーズに関しては途中、一種の生気論として「相関主義」の中に放り込まれてあっさり終了。え~!!嘘だろ、という感じ。
とにかく、この本が何でこんなに話題になっているのかよく分からない、というのが正直な感想である。
あえて言わせてもらうなら、「相関性こそが真の唯一なる即自的なものである」という部分にもっと切り込んでいくと面白いのになぁ~。
科学が提示する数理的な「物自体」と、宗教が提示する超越性としての「物自体」を接続する思考は、相関性を「物自体」の基底として思考していく以外に道はないと思うのだけどね。
それが、ヌーソロジーがいつも「素粒子とは超越論的無意識の構成だ」と言ってることの真意なんだけど。。ぶつぶつ。
4月 27 2016
言葉でも象徴でもなく、星たちの幾何学へ
Φさんがツイッターで素粒子について易しく丁寧に話をしていた。
―素粒子はフェルミオンもボソンも断じて「粒」ではない―
まずはこの認識をしっかりと頭に入れることが必要だ。つまり、世界は粒の集まりでできているのではない、ということ。こうした既成の認識を解体して、世界について根底から考え直す必要があるということ。
ヌーソロジーの考え方からすれば、素粒子とは「自他の即自的状況」に他ならない。創造世界はその関係性が無限の発展性を持つところに生まれている。思考とモノの相関関係を決して閉ざしてはいけない。その外部に思考が侵入することは不可能ではない。なぜなら、世界がこうしてあるのだから。
素粒子の粒子性とは空間の幅化がもたらしている一種の幻想であるということにそろそろわたしたちは気づくべきだ。空間の本性は奥行きに息づく純粋持続体であり、この視座の転換は知覚の現場を一気に無限小領域へとワープさせ、それまでの自他を精神としての「自他の即自的状況」の場へと遷移させる。
ここには小難しい哲学的議論はいらない。空間が延長であるという思い込みを外すだけでいいのだ。そのとき、わたしたちはすべての権力機構が延長概念によって供給されていたことを知ることになるだろう。自他の即自的状況にはいかなる権力も存在しない。
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無限小へと降り立った知覚は対象を持たない。なぜなら、それは繰り広げられたものを表象ではなく、イマージュへと加工しているからだ。知覚はそこから襞を形成し、そのまま出来事の場へ捻られ、繰り広げの場を用意する母胎となる。
すべてが内内で、それこそ内密に事が進んでいるのだ。繰り広げが繰り広げの最中で知覚されたものが表出であり、そこではイマージュは再び表象となって姿を表す。そのとき、内に折り曲げられた襞の方は、表象=再現前化のシステムとして「潜在的に」働くのだ。
ライプニッツ=ドゥルーズが描くこの生成の襞なる生産機構は息を呑むほどに美しい。
この機構の明晰なる設計図が素粒子の群の構造と一致するならば、世界はそれ以上に美しい。この美的な完全性は果たして危険物として懐疑されるべき類のものであろうか。
確実に言えることは、やがて、否定と肯定という二つの思考の類型の間に激しい戦いが起こるであろうということ。そして、襞はその戦いの火花さえイマージュとして呑み込み、それを表現として繰り広げるであろうということ。たとえそれが破局的なものだとしても創造的なものだとしても、わたしたちにはその見分けがつかないだろう。
デジタルとナチュラルが混在する今の世界はまさに、その表現の場になろうとしているのではないか。
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以前、死においては主体は1本の線(アンリ・ミショー)となると書いた。この線は非局所としての線のことだ。物理学的にはスピノルに相当している。線の理念と言い換えてもいいだろう。その意味で幾何学を思考することは死の組織化を思考するということであり、そこに幾何学と霊との直裁的な結びつきがある。
つまり、カタチを知るということは、霊的なものの復活なのだ。
主体を一本の線ごときに還元することに抵抗を持つ人も多いだろう。しかし、その線が有機的に他の死者たちと結合し、そこに真の物質の風景が立ち上がり、尚且つその風景が人間の現実世界と深い繋がり持つということになれば、私たちは現在の生を数倍、いや数百倍、数万倍にも輝かせることができるのではないか。
超越論的なものの幾何学というものが存在している。それは決して複雑なものではない、プラトンが指し示したように―。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 1 • Tags: アンリ・ミショー, スピノル, ドゥルーズ, プラトン, 素粒子