10月 24 2014
「いつでも今、どこでもここ」という新世界
「いつでも今、どこでもここ」という感覚は、誰でもが直感的に感じることができると思うのですが、その感覚が立ち上がっている場所のカタチを、認識に明瞭に浮上させることがヌーソロジーの思考を行ってための入口になります。
「いつでも今」ということは、あらゆる瞬間が対称性を持っている(置き換えが可能)ということであり、「どこでもここ」ということは、あらゆる位置もまた対称性(置き換えが可能)を持っているということを意味しています。こうした対称性が生まれている場所がわたしたちのこころを作っていると考えましょう。
今までの人間の知性は、空間と時間の方にばかり向いていて、ここはここ、あそこはあそこ、今は今、昔は昔といったように、分離を前提とした非対称的な思考のもとに働いてきました。これからの時代はこうした思考のスタイルは徐々に勢力を弱めて、こころの思考が芽吹いてきます。
「いつでも今、どこでもここ」を前提とする思考とは一体どういうものでしょう。一昔前ならば、そこからはもう思考ではなく、感じることだ、で済まされたわけですが、宇宙はこのカベを破ることを強く要請してきているように感じます。「こころで感じること」を超えて、こころで思考すること。そして、その思考を感じること。
目の前に現在が見えるとすれば、そこには永遠が重なっています。目の前に一つのモノが見えるとすれば、それはすべてのモノと重なっています。それがこころで知覚するということの意味であり、この知覚のもとにこころの思考が開始されるのです。
この「いつでも今、どこでもここ」の世界は、過去や現在や未来や、ここやそこやあそこの成り立ちを、その奥で支えている宇宙の深みと言っていいような場所です。この場所がなければそもそも世界自体が存在することができません。だから、それは世界のいのちとも言えます。
この「世界のいのち」に身を浸して、今までの知のかたちを再構成する作業を始めなくてはなりません。そうすれば、きっと新世界が開いてくるはずです。
10月 28 2014
鏡を割って、鏡を開く
羸都鏡(おきつかがみ)/ 十種神寶圖形譌に曰く、古傳圓鏡異名也、亦外宮神體を為す、故水鏡と云ふ。亦、物部氏十種瑞寶秘傳に曰く、白銅圓鏡也、或説金鏡、日象之鏡、在人者陽、火気鏡也、大宮賣神所掌也。………これは他者の視野世界のことです。
邊都鏡(へつかがみ)/十種神寶圖形譌に曰く、古傳八咫鏡異名也、亦内宮神體を為す、故火鏡と云ふ、右両圓者は上古鏡架也、鏡形から脱す者也。亦、物部氏十種瑞寶秘傳に曰く、白銅圓鏡也、或説銀鏡、月象之鏡、在人者陰、水気鏡、御気都神所掌也。……自己の視野のこと。「鏡形から脱す者也」の部分、要注意。
オキツカガミ(外宮神体)とヘツカガミ(内宮神体)。一言でいえば、他者の視野空間と自己の視野空間の関係のことを言っている。今の人間は他者の視野空間に支配されていて自分の視野空間が開いていない。つまり、外宮のみに世界を見て、肝心の内宮神体が沈んでいる。
僕がいつも「真の奥行きを取り戻せ」と言っているのは、このヘツカガミをきちんと立てるためなんだけど、ヘツカガミが立つと、内宮の風景が見え始め、写し合う二枚の鏡の関係によって、神話でヤタノカガミや八重垣で象徴されている四組双対の空間階層が見えてくる。
その第三階層と第四階層にあるのが、生玉(イクタマ)と死返玉(マカルガエシノタマ)、足玉(タルタマ)と道返玉(ミチガエシノタマ)だ。それぞれ互いに反転関係にある。OCOT情報が順に「位置の等化」「位置の中和」「位置の変換」「位置の転換」と呼ぶ空間概念に対応している。。
外宮で遊ぶ鏡形から脱し、内宮から外宮へと至る逆の道を開くこと。そこに他者との真の出会いの秘密(火水)の場所がある。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: OCOT情報, 位置の等化, 奥行き