1月 18 2010
福岡ヌースレクチャー第6回レポート
去年の8月から始めた福岡でのレクチャーも早6回目。予定の約半分の行程がこれで終了した。
参加者定30名。今回も満員の大盛況だ。参加者の皆さん、どうもありがとうございました。
さて、今回からオープニングビデオのタイトルも「NOOS LECTURE 2010」と書き換え、血気盛んに臨んだまではよかったのだが。。。レクチャーのできは今ひとつというか、今ひゃくというか、全く満足できるものではなかった。昨日は自分のふがいなさに一日中ふて寝していた。
今回のテーマは『自己と他者のトポス』ということで、人間のほんとうの身体(意識的身体)がどこに位置しているのかをヌーソロジーの文脈に沿って説明を試みたのだが、解説の途中でこともあろうにP.D.(Posision Doubtful/ポジション・ダウトフル/現在地不明の意)を起こしてしまったのだ。PDというのは本来、航海士たちが海上で自身の船舶の位置を見失うことの意だが、早い話、自分が一体、今何を話しているのかが分からなくなってしまったのだ。PDは逆に言えば、地上からも消息不明になるということでもあるから、当然、会場を埋め尽くしたお客さんたちにも僕がどこにいるのか全く分からなってしまったに違いない。ぽか〜んとした反応。全くワケのワカメ。その波動がず〜んと講義中の自分の身体に伝わってくる。こういうときムキになるとかえって墓穴を掘ることになるのは重々承知している。しかし、ホワイトアウトしている頭にはその冷静な判断ができない。。あ〜、こんなに自分が未熟だとは。。レクチャー中にこんな状態に陥ったのは久々である。
そもそも何でこんな事態に陥ったのか——今日の内容は4次元空間の中を探って行く内容だった。ヌーソロジーでは自己と他者は4次元空間においてモナド化し、プランクスケール領域に入り込んでいると考える。幾何学的には互いに3次元球面を自転させている回転軸の部分に、互いに逆方向スピンで入り込んでいるのだが、この構造の解説を2時間使ってしっかりやろうと考えていたのだ。それがこともあろうに、その解説中に3次元球面上でポッカリと口を開けたメールシュトレームの大渦ならぬ4次元回転の渦の中に呑み込まれ、自分自身の思考が溺死しそうになったという何とも情けない醜態をさらしてしまったのだ。酸欠でほんま頭が一瞬ホワイトアウトしてしまったわ。
何が悪いかと言って、3次元球面というやつがいけない。さらに、その3次元球面が自転しているというのがいけない。おまけに、それがミクロ世界の中に縮んで入り込んでいるというのがいけない。はっきり言って自己と他者が息づいているほんとうの場所というのはややこしいのである。そのややこしさを理路整然とクールに説明して、「どや、ヌーソロジーって凄いやろ」と無言の含み笑いを浮かべ、最後はヘドウィッグ&アングリーインチの『愛の起源』で感動的にキメてやる予定だったのだ。。。とほほ。その計画がしおしおのぱー。
古代にとっての古代(超古代)においては人間は「わたし」と「あなた」が背中合わせにくっついて生きる一つの生き物だった。でも、この生き物が勢力を持つことを恐れたゼウスがウラノスを使ってこの生き物を二つに切り離した。それからというもの、人間は二本足二本手の生き物になり、愛をパラノイアックに叫ぶ生き物になってしまった。
僕らはふたたび「背中合わせの生き物に戻る」ということがこのレクチャーでは言いたかったわけだが、「愛という言葉をこの世から無くしましょう!!」というエンディングの決め台詞も途中の失態が尾を引いてチョーカッコ悪く会場に響いてしまったのだった(笑)
う〜む、次回は雪辱戦だな。
1月 22 2010
不動の身体
現在、僕の頭を支配しているのは不動の身体感覚をどうやって知性に浮上させてくるかということ。もし身体が全く動いてないとしたら空間はどのように見えるのか。また、モノはどのように見えるのか。そのときの時間感覚はどのように変化するのか。仕事や家庭生活の合間に少しでも時間が空けば頭は即座にその問題についての思考に切り替わる。病気だ(笑)。
最初にすぐに気づくのはモノの運動と身体の運動の根本的な相違だ。身体と世界の関係は運動においては相対的なものとなっている。だから、立ち上がるなり歩くなり宙返りするなり、自分の身体を動かせば必然的に世界全体が動く。この場合、身体を不動のものと見なせば世界全体の方が平行移動するなり、回っていると言える。しかし、モノ一個の運動はどうかと言うと、身体の運動とは相対性を持っていない。モノはあくまでも世界の中の一ローカルな座標として世界に対して相対運動をしているだけだ。
このことからまず予想されるのは、モノと身体とは見てくれは同じ物質でも、その空間的な階層は次元を異にしているということだ。無限数のモノで構成されている世界自体は確かに身体と相対的な関係にあるが、一個のモノはその相対関係が作られている世界空間のその下部次元に位置している。物理学的に言えば、モノ一個の空間は座標にすぎないが身体の空間は座標系となっているということだ。
さて、身体を不動のものと見なしているとあくまでも視覚的な意味においてなのだが、主体極と客体極というものが普段に増して強く意識されてくる。簡単に言えば、不動の身体が持った位置感覚と眼前に敷かれた奥行き上の一点の関係性である。わたしは世界を目撃するのはつねに奥行きにおいてであるし、外界に対する意識の志向性は常にこの奥行き上のベクトルもどきとして働いている。客体極をノエマとするなら、主体極から客体極に放たれるベクトルもどきがノエシスと言っていいだろう。この場合、奥行きの深さは一般に時間と呼ばれているものに対応している。
目の前の鉛筆、たばこ、コーヒーカップ、壁に掛けた額……。わたしが眼差す対象は次々と移り変わっていくが、不動の身体においては世界側がグルグルと回転しているに過ぎない。
今度は立ち上がって部屋の中を歩いてみる。世界が大きく動き出す。部屋の窓が近づいてきて、外の風景が見え出す。対象極には今度は屋外の風景が入り込んできて、近くの弁当屋や遠くのテレビ塔をまるでカメラの焦点合わせのようにまさぐり出す。しかしその方向は依然として眼前であることに変わらない。そこで僕はふと思う。主体極から対象極までの奥行きには時間があるのは分かる。問題はその向こうだ。対象極の向こう側には一体何があるのか。
今度は外に出て真っすぐ歩いてみた。遠くに小さく道路標識が見える。それを対象極にセットして、どんどん接近を試みた。対象への接近は不動の身体から見ると対象極を原点とする三本の直交する線(x,y,z)が次々にスルスルとその対象極を通過してすべっていくかのように見える。いや、三本の座標軸が主体極を折り返し点にしてそれぞれの方向にただ回転しているかのようにも見える。ふと気がつくと、さっきまで小さくしか見えていなかった道路標識が目の前に大きく立ちはだかっていた。
——進入禁止。
どひゃー。こうして、僕は不動の身体感覚を持ってしても対象の背後には絶対に侵入できないということが分かったのだった。
この見えないカベを超える所作が反転の身振りである。おそらく、そこに見えてくるのは自分の後頭部に違いない。もちろん、不動の身体としての。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 10