3月 23 2009
ヌーソロジーが持つ太陽系に対する眼差し
太陽系と人間の無意識の元型を形作っているヒトの精神構造について、ヌーソロジーが用いる観察子という概念の視点から大まかにそのアウトラインを紹介してきたわけだが、問題は太陽系を構成している天体群に対して、なぜ、今までに挙げてきたような意味づけが可能になるのかというその根拠である。これらの意味づけが単なる神秘的直観の産物だというのでは従来の神秘学の域を一歩も脱するものでもないだろうし、科学主義がここ200~300年にわたって緻密に築き上げてきた太陽系観を凌駕できるものでもないだろう。果たして、太陽系を人間の無意識構造の現れと見なすためには、どのような概念を組み上げていけばよいのだろうか。
まず、ヌーソロジー全体を貫いている基本コンセプトは意識における外在世界や内在世界といった区分、自己や他者という区分、さらにはそれらに対する観察や被観察といった立て分けが一体どのような条件のもとに成立可能となるのかを空間的な構成から分析していくところにある。つまり、意識の働きを空間的な差異(次元的差異)の構造に由来する力の流動として考えるということである。
人間がどのような認識を作り上げるにしろ、人間の認識が拠って立つ基盤は身体においてほかはない。身体を通してしか意識という現象が成立し得ないという意味において、身体は他の存在物とは絶対的な差異を持つ何者かである。通常、われわれは「自らの身体と空間の関係」を「他者の身体と空間の関係」に重ね合わせてイメージしてしまっているので、身体を単なる他の対象物と同じ地平で捉えてしまう。しかし、そのような視線で天体たちの世界を見つめたとしても、星々と意識との間に張り巡らされた秘密のつながりは決して見えてくることはない。古代人たちが語った星々と人間との秘教的なつながりはイデア世界に由来するものであり、イデア世界に思考を馳せるときには無時間の思考軸を立てることがまずは絶対条件なのである。そして、無時間の思考を行うための条件として、身体を不動の位置と見立てたときの空間概念が必然的に付加されてこなければならない。つまり、運動や記憶といった時間にまつわる一切の概念が排除された空間を作り出す必要があるということだ。
身体を不動の身体と見立てると言っても、何もそれほど抽象的な話をしているわけではない。単純に身体が動くという描写を括弧で括り、「動いているのはすべて世界側である」というものの見方を作ればそれでいい。目の前に出現している様々な自然界の運動すべてを視野空間というモニター上に映し出された像と考える視点を作るだけで、僕らは不動の身体の位置を簡単に獲得することができる。つまり、この現実世界そのものをコンピュータビジョンと同じシステムによって作られたヴァーチャルな映像として解釈すればよいのだ。現象世界をそのように捉えたとき、4次元時空という広がりはすべて視野空間というモニター内に集約され、身体そのものにおいては世界は単に「前」という一つの方向性の空間の中に折り畳まれたローカルな場所として出現してくることになる。コンピュータビジョンが描き出す空間がモニター世界の中で完結した空間であるように、われわれの世界もまた視野空間というメタモニターの中のみで完結した世界となっているということだ。
このような不動の身体が存在する空間では時間もまた消滅しているのが分かる。なぜなら、「前」としての視野空間では時間は奥行きという方向と同じ意味を持ち、その奥行きは知覚正面という薄膜の中で限りなくゼロに近いに厚さにまで潰されているからだ。つまり、不動の身体という観念のもとでは時計は永遠を示し、空間もまた距離を失った世界に変貌しているということだ。そして、この身体自身が感じ取っているその外部の空間の方向性は、コンピュータにおけるモニターの外部がモニター空間の延長ではないように、視野空間の内部に含まれている空間ではない。目の前の現象世界に対してこのような捉え方をしていくと、身体自身が感じとっている「前-後」や「左-右」「上-下」といった内発的方向は、通常の時空概念の中には含ませることのできない場所だということが分かってくる。
たとえば、自分の顔が今どんな表情をしているか想像してみよう。そのとき意識は「前」方向からわたしの位置を見る視点に立ち、わたしの「後」方向を見ている。「後」という方向はこの意味で常に想像的な方向である。次に、目の前に見える対象と自分との距離関係を認識してみよう。そのとき意識は、わたしの左側か右側に視点の位置を変え、わたしと対象との関係をあたかも真横から見るような観察を働かせているはずである。言い換えれば、こうした左右方向への視点の移動が意識の能力の中に存在していなければ、われわれはおそらく、目の前の対象と自分の分離さえも認識することはできないだろう。意識はこのように身体を中心とする異邦な空間において様々な方向にネットワークを組み、その複合的な仕組みの中でわれわれに主体や客体の区別、さらにはその観察を可能にさせているのである。
このような実存の場所において地球という天体をイメージしたとき、地球もまた不動の大地ともいうべき確固たる位置を持っていることがイメージされてくる。なぜなら、大地をその根底で支えている地球中心はそうした無時間領域としての無数の身体たちが持った「前」方向を一点に焦点化させた位置として現象化させられている唯一の存在だからである。無意識構造としての太陽系に思考をアクセスさせるためには、まずは、こうした身体空間を通した空間認識をわれわれの思考空間の中に用意周到に準備する必要性がある。そのことによって、太陽系の各天体を支配している回転運動が単に物理的な運動ではなく、OCOT情報が伝えるような様々な次元階層を等化している運動、いや運動という表象から時間が剥奪された意識構造のイデア的形状として解釈することが可能になってくるのである。
4月 5 2009
『ラス・メニーナス(侍女たち)』——人間型ゲシュタルトの起源、その1
ロッジの方でnooobie(ヌービー)さんという方がご自身の日記にベラスケスの『ラス・メニーナス(侍女たち)』(上図)という絵画をUPされていた。この作品がヌーソロジーの観察子概念であるψ3〜ψ4と関係があるのではないかという問題意識からである。無意識というものが視線の幾何学によって構造化されていると考えるヌーソロジーにとっては、このnooobieさんの問題提起はヌーソロジーの王道をいくものであり、僕はすぐに以下のようなコメントをつけた。
>nooobieさん、こんにちは。フーコーの『言葉と物』のしょっぱなにこの絵のことが解説されてますね。nooobieさんのおっしゃる通り、この絵には様々な観察子のレベルが幾重にも入り込んで、秀逸なアイデアを以て表現されているように感じます。ψ3~ψ4は言うに及ばず、ψ*3~ψ*4、そしてそれらが織りなすキアスム、さらにはそのキアスムを統合する視点まで盛り込まれていると解釈することも可能ですね。
『言葉と物』においてフーコーは、この絵画上における視線の交差の分析を通じて古典主義時代(ルネサンス期から近代の橋渡しの時代)における知の在り方についての分析を行っています。知の在り方というのが分かりにくければ、主体の在り方と言ってもいいかな。主体がどのようなやり方で自身の意識を綜合させているかということを、この絵画の中で交錯している様々な視線の関係性から解説を試みています。 フーコー自体の分析はかなり難解なので(というか、言い回しがまどろっこしい)、僕のレビューにも挙げた大澤真幸さんの『資本主義のパラドックス』を是非、お読みになられてみるといいと思います。大澤氏はフーコーが言いたかったことをもう一歩分かりやすく解説してくれていまから、nooobieさんをクラクラさせている幻惑が少しは明晰な幾何学となって整理されてくるかもしれません。
ちなみに、大澤氏の解説を読む限り、この絵画に含まれているすべての視線ははヌーソロジーでいうψ9~ψ10のシステムまでをすべて網羅して、ψ11~ψ12の段階へとまさに突入せんというところの状態だと言えそうです。ヌーソロジーの文脈では、古典主義の時代というのは、実際、ψ9~ψ10からψ11~ψ12に向かう転換点のような時期に当たると考えていたので、そのへんの論説を補強する材料として使えます。新著でもこの絵を題材にして、思形や感性の説明をしようと思っていたところだったのですが、nooobieさんのいきなりのUPにちょっとビックリです(笑)。
* * *
絵画を思考によってこと細かく分析することを感性の蹂躙だとして嫌う人たちもいるが、絵画の歴史の中には「さぁ、この絵のナゾを解けるもんなら解いてみろ」といわんばかりの作品が時折、登場してくる。このヴェラスケスの作品もその中の一つと言っていいだろう。人間において実際に見えている世界、つまり「人間の外面」という場所に精神が息づくと考えるヌーソロジーにとって、絵画史とは精神の有り様の履歴でもある。絵画が意識の表象を表象するものである限り、人間の創造力が見えている世界をどのように表象するのかというその表象の仕方、させ方の中にその時代時代の精神の様態が表象されていると考えるのはきわめて自然なことでもある。そして、多くの絵画評論が語るように、絵画における表象の在り方は人間の歴史の進展とともに多くの変遷を見せてきた。
フーコーがこの『ラス・メニーナス(侍女たち)』の分析で言いたかったことは、古典主義の時代(17世紀〜18世紀iにかけての西欧)において表象を通しての思考体系の基盤が完成されたということである。「表象を通しての思考体系」とは、簡単に言えば、見えるものにすべてが還元され、思考がその中から一歩も出られないような場のシステムいったような意味だ。古典主義の時代に確立されたこの思考体系は同時にデカルトの「我思う、ゆえに我あり」における「我」なる存在を生み出したと考えられるのだが、これは近代という時代を絶えずリードしてきた近代理性の主(あるじ)としての「わたし」のことにほかならない。理性=明らかにする力。そして、この明らかにする力というのは目の力のことでもあり、それは隠されていたものを表層へとえぐり出す行為、すなわち表象化する力のことにほかならない。しかし、ここで注意しなければならないのは、表象とはその原語がre-resentation=再-現前化することの意でもあるということだ。それはあくまでもリプレイされた現前であり、事物そのものの現れのことではない。リプレイされた像によって世界がすべて覆い尽くされてしまうということは、むしろ事物のそのものの現れをすべて隠蔽するためのシステムとも言える。そして、このリプレイする力こそがヌーソロジーで「人間型ゲシュタルト」と呼んでいるもののことなのである。世界が人間型ゲシュタルトで覆い尽くされしまう契機がこの作品には表象されている、というわけである。
では、一体、この作品の何が、世界を表象で満たし、その表象が作り出すシステムから一歩も出ることのできない「わたし」を表象させているというのだろうか。ここではフーコーの分析を下地にしてヌーソロジーからの分析のあらすじを簡単に書き加えてみることにしよう。
——次回につづく
By kohsen • 01_ヌーソロジー, ラス・メニーナス • 0 • Tags: フーコー, ラス・メニーナス, 人間型ゲシュタルト, 内面と外面