6月 8 2009
地球から広がる空間について、その7
●一日と一月と一年の関係
さて、月の公転が起きている空間について説明したついでに地球の公転軌道についても少し書いておきます。まだまだ具体的な傍証に不足しているため、皆さんにはかなりのトンデモに聞こえるかもしれませんが、まぁ、気にせず行きましょう。
地球の1公転とは簡単にいえば1年のことを指すわけですが、この間に月は地球の周りをおよそ13回にわたって公転しています。月の公転周期を約28日とすれば、28×13=364日でほぼ一年の365日に近似することが分かります。そこで、この「28」と「13」の意味に関するOCOT情報のいくつかをシリウスファイルから抜粋してみることにしましょう。
地球の自転と公転の関係は?
わたしたちの次元では公転と自転は表裏一体です。
意識が交点を持つものにおいては方向性が同じ。
地球の自転とは中和を行うために生み出された力。
公転はカタチを定質に反映させるために生み出された力。(シリウスファィル19900722)
一年とは何ですか?
変換作用における対化の等化のことです。(シリウスファイル)
月の周期が28日なのはなぜですか?
28のカタチの対化が必要であるということ。
付帯質が精神に力を持っていくための力の数です。
月の周期が(一年が)13ケ月なのはなぜですか。
表相の働きとしての負荷。精神の転換作用と関係がある。(シリウスファィル19920917)
これだけでは何のことやらサッパリ分からないかもしれませんが、前回ご紹介した月の公転の意味を考慮しながら、地球の公転軌道を実際に図に描いてみるとOCOT情報の言わんとするところが何となく分かってきます(下図1参照)。
ここではこの図から「変換作用における対化」というものが等化されているカタチの様態を見取ってもらえばそれで十分なのですが、ここでいう変換作用とは地球に対する月の公転として表されている精神の働きのことを言っていると考えて下さい。月は前回も言ったように、ψ13を通して人間の意識を差異なき空間の中に投げ込んでいくと同時に、その投げ込みが新月まできた時点で今度は外面方向へと方向を変換し、人間の意識が虚無へと無限落下していくのを繋ぎ止める働きをしています。この働きが潜在化したψ14でこれは新月から満月への方向に相当します。この人間の無意識が持ったψ13とψ14の双方向の反復の働きがここでいう「変換作用の対化」というものです。
さて、ここで今度は地球の公転軌道(1年)を通して月の運動を見てみることにしましょう。すると、地球が太陽の周囲を半回転したとき、地球の周囲をまわる月の満ち欠けを支配する位相関係が太陽を中心にして全く正反対の位相として構成されていることが分かります。これは次元観察子で言えば、ψ11(新月)だったところにψ*12(満月*)が入り込んできており、同じくψ12(満月)だったところに今度はψ*11(新月)がきているということでもあります。
このψ11〜ψ12、ψ*11〜ψ*12の相互反転関係を月の軌道を構成するψ13とψ14の二つの半円で見てみると、あたかも、182日という日数をかけて、地球の公転がψ13とψ14の位相を相互に入れ換えているかのように見えるはずです。つまり、ψ14だったところをψ*13に替え、それと同時にψ13だったところがψ*14に変わっているわけです。これが「変換作用における対化」を等化する精神の現れだと考えて下さい。
ψ11とψ12というのはもともと何だったかというと、超越論的自我を完成に導いている無意識構造の全体性と、その無意識によって反映された時空という場所性(現代人が認識している均質化された時空のことです)のことを意味していました。それら両者の関係は、自己の意識的身体における3次元性(反核質)と自己から見た他者の物質的身体における3次元性(核質)の関係としても出現しており、結果的に現在の人間の意識はψ12(時空)の中で自身の反核質ψ11を(意識的身体空間の統合)をψ*12としての核質*(他者から見える自己の身体空間)と見なし、核質と核質*を同一化させています。このψ12とψ*12の同一化がψ14です。
僕は他者自身には決してなることができないので何とも言えませんが、他者、つまり皆さんの意識にも今言ったことと同様のことが起きているのではないかと想像することができます。しかし、皆さんにとっては僕の存在は次元観察子においてはあくまでも「ψ*」側の存在ですから、僕の意識が僕側で経験しているψ14という時空の完全なる均質化は皆さんにとってはψ*14となっているとも言えます。ですから、ほんとうの意味で「わたし」と「あなた」が一体となるためには、このψ14とψ*14が同じものと見なせる精神にまで達する必要があるということになります。そのような精神とはいうまでもなく、ψ13とψ14を等化することのできる精神、つまり、ψ14をψ*13へと変えていくことのできる精神です。反対にψ*14をψ13に変えていく精神と言っても構いません。地球の公転軌道上で起こっている半回転はこの精神の働きを象徴している運動だと思って下さい。つまり、何が言いたいかというと、超越論的な自我を持った単独者としての「わたし」の意識は決して「わたし」として閉じた存在で終わっているのではなく、地球の公転が作り出している通路を通して彼岸にいる「あなた」の意識と繋がれ、かつ、一体となっているということです。
もちろん、月の公転レベルの精神活動でさえ現在の僕らには意識化することが不可能なのですから、この地球の公転として映し出されている精神の存在など今のところ「わたし」の意識には微塵も感じ取ることができないかもしれません。しかし、その精神の回廊の中をnoosは確実に旋回しており、わたしの世界とあなたの世界を結びつけ、世界に現れている物質の中をも貫いて周り巡っていると考えられます(ミクロ世界ではpp反応と呼ばれる陽子対の衝突となって現れていると予想される)。
本来、宇宙の全体性のつながりを探求すべき哲学や科学といった学問を倫理へと接続できないのは、ある意味、この月の公転レベルである精神領域から人間の思考が抜け出すことができないからなのかもしれません。月の軌道は人の一生においては生と死を分け隔てているカベと言ってもいいし、歴史においては被造物(受動者)と創造者(能動者)との間に存在する分水嶺とも呼んでいいものです。この自己と他者世界との境界を何とか打ち破り、地球の公転レベルの無意識へと知性を携えて入っていく作業がヌーソロジーが「顕在化」と呼んでいるものだとイメージしてもよいのかもしれません。
地球の公転軌道とは何ですか?
顕在化の力の交差を意味します(シリウスファイル)。
ここでOCOTのいう「顕在化の力」というのが次元観察子ψ1~ψ14までを意識にありありと浮上させてくる変換人が持った精神形成のプロセスの力のことをいいます(ψ13の顕在化において変換人はヒトと呼ばれる存在となる)。その意味で地球の公転軌道に沿って回り巡っていく月の1公転は顕在化した次元観察子ψにおける序数そのものを意味すると考えてよいでしょう。ψ13までを顕在化させることができれば、人間の意識は地球の1公転として現象化している精神(noos)を等化し、今度は太陽存在の本質的な意味を覚知し始めることになります。この地球の1公転によって作り出される一年は上のシリウスファイル19920917に記してあるように、地球の自転(1日)のウラへと回り込み、今度は精神の転換作用として人間の意識を内面化させていく本源力(真実の人間の意識)として働いていくことになります。
——つづく
6月 18 2009
地球から広がる空間について、その8
地球から広がる空間についてダラダラと駄弁を弄してきましたが、ここで地球、月、太陽が精神構造においてどのような役割を持っているのかについて簡単にまとめておきます。今まで示してきた地球や月の自転、公転の話ともいずれドッキングしてきますので、それが楽しみに思える方はどうぞ楽しみにして下さい。
まとめの前に、まずは僕の会社の取引先の会社の通信誌に掲載されたインタビュー記事を紹介しておきます。この記事は毎回、映画をネタにヌース話をくっちゃべる「NOOS DE CINEMA」というコーナーで、『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』を題材にしたときのものです。

ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ
「人間は一体どこに向かって、一体何をしようとしているのか?」
今回のヌースDEシネマは「ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ」を題材にヌーソロジーの独自な視点で語っていただきます。
* * * * *
藤本 今回の映画は、オフ・ブロードウェイで大ロングランを記録したロック・ミュージカルを映画化した『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』です。デヴィッド・ボーイやマドンナなどのロックスターもオフ・ブロードウェイでミュージカルを観劇しています。デヴィッド・ボーイはその後ロス公演に出資したりマドンナは劇中で歌われている曲の2曲を自分のレーベルからリリースしたいと申し出たそうですね。
半田 とにかく楽曲が素晴らしかったね。特にテーマ曲ともなっている『愛の起源(The origin of love)』はミュージカル史に残る名曲だね。作曲を担当したスティーブン・トラスクもバンドのギタリスト役で出演してる。サウンド・トラックを買っても損はしないと思うよ。
藤本 そうそう僕もCD買いました。ツタヤで借りようかなと思ってたら、半田さんに強く勧められて、博多のキャナルシティに一緒に行って買いましたね。(笑) どの楽曲もとても素晴らしいと思います。その中で『愛の起源』は一番気に入っています。この曲はプラトンの『饗宴』にモチーフを得た寓話を物語としてバラードにしたとCDの説明書に書いていました。
半田 そうなんだよね。『響宴』での議論のテーマが「愛」だったんだ。その中でソクラテスがまず愛を永遠のイデアとして語るんだけども、アリストファネスが語った愛の起源の寓話の方が有名になっちゃったんだよね。世界が生まれたばかりのころの人間は二人一組で背中合わせの生き物で、両手両足がそれぞれ4本ずつあった。しかし、人間が地上を支配するのを嫌った神さまは、この最初の人間を二つに引き裂き、それぞれ今の人間の形にした。以来、人間は失われた半身を求めて愛を渇望するようになった。という話だね。テーマ曲の『愛の起源』はそのストーリーをとても分かり易くアニメ仕立てにしていて、映画のセンスをぐっと引き立てていたよね。
藤本 その話なんですけど、今の人間が生まれる前=愛が生まれる前=人間が二人一組だった頃は「三つの性」があった。男と男が背中合わせだと『太陽の子』。女と女が背中合わせだと『地球の子』。そして『月の子』はフォーク・スプーン、太陽と地球、娘と息子の中間。今は男と女だけど、この「三つの性」について解説していただけますか?
半田 この三つの性というのはね、世界というものが生まれるための三位一体を象徴させて言っていると考えていいんじゃないかな。まず男・男の『太陽の子』というのは精神、女・女の『地球の子』というのは物質、そして男・女の『月の子』が意識。物質と精神をつなぐものが意識なんだけど、今の人間は人間自体の精神が自己と他者という双子関係で作られているということに気づいていないので、世界の成り立ちを単に男性原理と女性原理の二元論で見ちゃってるんだよね。それだと両性具有的な原理が見えない。結果、精神と物質が対立してしまう。そして間をつないでいる両性具有の部分が無意識の中に沈んでしまうんだね。月はその沈んでしまった無意識を象徴するものなんだよね。
藤本 男・女の『月の子』は、物質と精神をつなぐ意識であり、両性具有的な存在と考えていいのですか?映画の中で主人公のヘドウィグは、西ベルリンで男として生まれ育ちますが、アメリカの兵隊に求婚され、アメリカに渡るために性転換手術をします。その手術が失敗して傷跡が1インチ隆起してしまう。題名になっているアングリー(怒りの)インチ(1インチ)。ヘドウィグは、『月の子』ですね。
半田 主人公のヘドウィックがゲイだという意味ではそうだね。しかし、別の解釈もできる。そもそもこの作品が面白いのは至るところに月に象徴される人間の無意識世界を目覚めさせろというメッセージが様々な比喩となって盛り込まれているところなんだよね。たとえば、ヘドウィッグが歌う挿入曲の『ヘドウィグ&アングリーインチ』では「オレのオチンチンはもともとは6インチあった。それが1インチだけ残されてしまった、こんな半端な状況で一体どうしてくれるんだ!!」ってその何ともやりようのない怒りを歌ってる。これは全体の5/6がどこかに消えてしまった中途半端さに対する怒りなんだ。5/6というのは10/12でもあるんだけど、「12のうちの10がどこかに消えてしまった」という話は古代の宇宙論ではよくある話で、たとえばユダヤの「失われた10支族」の伝承なんかもそうだね。12で完全なのになぜか2しか残っていない。残りの10を探さなくてはならない、ってね。12のうちの2というのは不吉さを表していて、東洋占術なんかでも天中殺で使われてる。ヌーソロジーの宇宙観もそうだよ。
藤本 奥深い話ですね!では顕在意識が2で残り10が潜在意識。そしてこの映画のテーマは、「人間の無意識世界を目覚めさせろ」ということですか?どうしたら人間の無意識世界が目覚めるんでしょうか?
半田 ズバリ、最初に紹介したこの映画の主題曲でもある『愛の起源』の中にそのヒントは隠されているんじゃないかな。『愛の起源』の中で、もともと人間は背中合わせでくっつき合っていて、手足が各4本ずつあったと言ってる。このことが何を意味しているか、そのナゾを解くということだよ。実際、こうしたことを言ってるのは何もプラトンの『響宴』だけでなく、アフリカのドゴン族の神話にもノンモという生物がいて、これまた男・女の背中合わせのかたちをしてるんだ。日本にも両面スクナという伝説が残っているしね。
藤本 そうなんですか。アフリカや日本やでもそのような神話が残っているのですね。手足が4本ずつある意味って何ですか?それが「人間の無意識世界を目覚めさせる」ことと関係あるんですよね。
半田 これはヌーソロジーの根幹とも関係があることなんだけど、人間という生き物は本来、自己と他者で成り立っているということなんだ。つまり、ほんとうは二人で一人であって、個体が独立して存在しているように考えるのは誤りだということ。おそらく、大昔はそうした「二人で一人」という人間像が当たり前に思える意識状態で人間が存在していたのかもしれない。もっとも、それを人間と呼べるかどうかは分からないけど(笑)。
藤本 手足が4本とは、自己の中に他者が存在している。自他共にひとつであると言うことですね。それを神が引き裂いた。他者を取り戻そうとすることが愛ということですか?
半田 他者を取り戻すとも言えるし、ほんとうの自分を取り戻すとも言えるよね。なぜなら、自己とは他者によって与えられているものだから。『愛の起源』が語る背中合わせの男・女とはその意味で言えば、愛を成就した人間のかたちそのものと言っていいのかもしれない。愛が成就しているのだから、そこには愛なんてものはない。今の人間が愛と呼んでいるものはそうした失われた半身を取り戻そうとするあがきのようなものかもしれない。
藤本 「人間の無意識世界を目覚めさせる」・「ほんとうの自己を取り戻す」ことは、「愛を成就した人間のかたち」・「手足が各4本ずつあった」・「6インチあった」・「12」に戻ることですよね。この映画は、ヘドウィックが今の人間として、その道を彷徨っている姿を描いているのだと思います。
半田 そうだよね。その意味で言えば、愛が成就できない今の僕らはすべてがヘドウィグであり、そこに怒りや苦しみをぶつけるアングリーインチとも言えるね。
藤本 ヘドウィグは、現在の人間の象徴的存在ですよね。この映画の最後のシーンで、ヘドウィックは、化粧が剥がれ落ち、カツラを取り裸になって、雨が降る夜の街角をフラフラと歩いていきますよね。最後のシーンとしては、寂しい終わり方です。これも何か意味があるんですよね。ヘドウィグは、どうなるのでしょうか?凄く気になります。
半田 そうだね。一見するとこの映画は、結局「人間は魂の片割れを追い求めて永遠にさまよい続けるしかない」というメッセージを発しているように思えるけど、僕は違う見方をしてるんだ。ラストの少し前のところで、ヘドウィグが女装を脱ぎ捨てて男の姿に戻って額に十字架を描いて歌うシーンがあるよね。そのとき衣装は純白に変わっている。このシーンは実は無意識の覚醒を描いたものじゃないかと思うんだ。だから同時に、ヘドウィグと対照的な関係にあったイツハク(彼女はいつも男装をしていた)も、本来の女自身の姿に戻り、隠されていた美しさを開花させる。ここはこの作品でも一番大事なところで、本来の男と女に戻った人間の姿が現れているとこなんだ。さっき言ったよね。今の人間は皆がアングリーインチなんだって。つまり、「無意識を目覚めさせる能力」が去勢されて、悩み苦しんでいる。だから、本来の男と女に戻るということは、無意識の目覚めを寓意させているんだよね。そして、この映画が素晴らしいところはそこで物語を終わらせなかったところ。無意識がたとえ目覚めて愛が成就したとしても、また、別れがやってくる。最後にヘドウィグが雨の街を裸で放浪するシーンはその意味で「新しい始まり」と解釈した方がいいだろうね。そうやって、世界は流転し続けているんだと。決して愛が究極ではなく、成就した愛は、また別れの物語を作り上げ、人間という存在のストーリーは永遠に続いて行く。愛の成就というゴールよりも変化していくプロセスこそが最も大事なものなんだよ。—— 「いきいき生活通信」 2009年5月 1日号より転載
ということで、次回、地球、月、太陽の話を、架空のインタビュー形式にして続けてみることにしましょう。次回はコテコテにヌースロジカルに話します。
By kohsen • 01_ヌーソロジー, 09_映画・テレビ • 0 • Tags: プラトン, ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ, ユダヤ