9月 15 2005
眼から芽へ
現在、ヌース理論のテキストブックの下案作りをヌース会議室の方で進めているが、今日は、1日仕事の手が空いたので、そちらの作業にだいぶ時間を割くことが出来た。
今日考えていたのは「表相」というヌース独自の概念についてだ。独自でもないか。。。フッサールの現象学なんかでは「射映」と呼ばれているが、要は、視野上に顕われているモノの見え姿のことである。ヌース理論では、この「表相」を精神構造における最もミクロな部品と考える。僕らの周囲を見渡してみると、それこそ、多種多様な表相で覆われているのが分かる。様々な形と色とデザインでかたどられた対象の数々。鉱物、植物、動物、人工物、星空、そして、君の顔。僕らの肉眼に写し出されている表相の世界は実に多彩だ。
表相とは別名、見ること、に他ならない。見ること——精神はこの行為によってその活動のスイッチを入れる。当然、見ることのさらなる奥には、触ることや嗅ぐこと、味わうことや聞き入ることなどの諸感覚の働きがあるだろう。しかし、ヌース理論は敢えて、見ることにこだわりたい。なぜなら、見ることは知性的なものの象徴だからだ。ヌースが旋回的知性という名の通り、知性の範疇であるならば、見ることはこの旋回性に無関係のはずがない。人によっては、ヌースがあまりに視覚にこだわるので、おもむろに嫌悪感を示す人々がいる。
「眼は理性の象徴である。それはアポロン的な知性しか呼び起こさない。どうして、眼にデュオニソスの力を再現する力があるというのか。眼によって世界の裏を見透かすことはできない。」
果たして、そうだろうか。僕は、人間はまだ眼の潜在的な力を開拓しきれていないのではないかと感じている。もちろん、嗅ぐことや聴くこと、触ることや味わうことなどによって呼び起こされる共感覚が、無意識を呼び起こす上でとても重要なことぐらい百も承知している。しかし、神の性器は間違いなく眼だ。そういう確信がある。だから、神の生殖に関して思考を巡らすためには、いや、神の生殖をこの世界にもたらすためには、この「眼」についてもっと深く思考する必要があるのだ。
現在、眼は極めて男性っぽい響きを持っている。視姦。覗き見。監視。etc。それは、人間があまりに見ることにおいて、見るものを意識しすぎているからだろう。しかし、それも無理はない。見るものがどこからやって来たか知らないのだから。受け手はただ、与えられたものの美しさや不思議さに魅せられるしかない。しかし、そろそろ、受け手自身である自分に眼差しを向けてはどうだ。見ることにおいて、見られることの方に意識を向ければ、眼はそれこそ、女(め)となり、また、芽(め)となることができはしないだろうか。
眼がモノを見ているとき、モノもまた眼を見ている。眼がモノから放たれる光を見ているとき、モノもまた眼から放たれる光を見ている。僕らの眼はまだ十分に開いてはいない。眼が完全に開いたときには、もはや、モノを見る必要はなくなるだろう。僕らの眼とモノの眼が出会うとき、二つの眼は光そのものになる。光になれば、世界から見る主体も見られる表象も消え去る。そこに出現するのはタブラ・ラサとしての世界だ。
さて、何を描こう。。。
ヌースの芸術がここから始まる。
9月 26 2005
水博士
今日は東京にいる。月例の東京出張である。毎月、東京に出てはいろいろな人たちに会っているのだが、今回は、一部で水博士と呼ばれているK氏との面会が主なる目的で上京した。
K博士はもと日立製作所の研究員で、半導体洗浄のための水の研究をやっていたらしい。13年ほど前、わたしがまだ駆け出しの頃、中国の北京大学との学術交流でご一緒した縁で知り合った。北京大学ではK博士と共に研究発表をさせていただいたが、当時はヌース理論という名称はなく、タキオンの研究者ということで、とてつもなくぶっ飛んだ話をして、北京大学の教授連の目を白黒させた記憶がある。それとは対照的に、この老練の研究家は水の神秘性について豊富な科学的データからいろいろと語り、拍手喝采を浴びていた。
今回、久しぶりに博士のもとを訪れたのも、今や水博士と呼ばれるようになったこのK博士にNCジェネレーターでヌース化した水の物性分析をお願いするためであった。訪問する前に電話で一報入れておいたのだが、博士の方もわたしのことをよく覚えていてくれた。「あ〜、半田さんね。忘れてませんよ。確か北京大学で雲をつかむような話をされてましたよね。」当時は、ほんの駆け出しの青二才だったが、とにもかくにも、「ぶっ飛びの半田」が功を奏したのかもしれない。現在、やっていることを少し説明したら、是非、研究所の方へおいで下さい、ということになった。研究所と言っても池袋駅の近くのマンションの一室で、室内は研究書類や、実験装置などで溢れんばかり。その中で二人埋もれるようにして楽しい水談義が始まった。
現在、某国立大学でも教鞭を執ってるK博士は「気」や「波動」といった目に見えない力の存在を否定しない。それは水研究の現場で、そうした力が水の性質を変えることを何度も目撃してきているからだ。しかし、博士は言う。
「半田さん、水は気功師が発する気や鉱物の力によって確実に何らかの変化をしているんですよ。しかし、残念ながら、現在の測定機器ではその変化を拾うことができない。水の善し悪しの本質はミネラルがどうしたこうしたかとか、phがどうのといった表層的な問題じゃないんです。物質を見ても絶対分かりません。何か未知のエネルギーなんですよ。エネルギー。それは、かすかにスペクトル分析で顔を出しそうになるけれども、結局は、測定誤差範囲内での変化でしかないから、科学的には無視される。でも、その無視された部分にとても重要な何かが隠されてる。」
そういう話が初っぱなから出てきたものだから、わたしの方も調子に乗って、現在、行っている自分の現在の作業について一気にまくしたてた。当時の理論は現在では飛躍的に進化したこと。その理論を使って機械を作ったこと。この機械が素粒子構造のカタチを再現する機械であること。現在の物質は歪んでいるということ。その歪みをこの機械が是正する力を持っているということ。様々なデータが出始めていること。どうしても物性レベルの変化を示す科学的データを引っぱり出したいということ。etc。
博士によれば、来年、筑波の高エネルギー研究所に中性子の状態を解析できる器機ができるらしい。それを利用すれば、今まで不可能とされていた水分子についての数段精密な分析が可能になるという。
「半田さん、面白いねぇ〜。よく、ここまで持って来たね。全面的に協力しましょう。」そう言って固い握手を交わした。よっしゃ、これで博士も乗り気にさせることができた。まずはめでたしめでたし。ヌースのテクノロジーの有効性を証明するためにも、この勝負には絶対負けられない。
重要なことは、サイエンスとスピリチュアルの接合を果すこと。その接合はまず水から起こる。わたしの直感はそう訴えている。水はヌースでいうところの脈質である。脈質とは次元境界を接合したり乖離させたりする、言うなれば、次元調整機構の源泉である。その本質は時空を挟んで対峙する自己と他者の表相にある。モノを中心に放たれた表象作用の2つの方向。それが酸素(O)と水素分子(H2)の結合の意味なのだ。この次元の顕在化のカタチが物質レベルに顔を出してくるとすれば、それは現在の水に強烈な変化の一撃を与えるはずなのだ。ヌース的錬金術は、まずはこの水のメタモルフォーゼ、すなわち錬水術から始まる。世界中の水を目覚めさせること。8人のノンモを再びこの地上に降下させること。そこにシリウスの入口がある。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 1 • Tags: 素粒子, 表相