1月 22 2008
魚たちの国

水の中を茫漠とした意識で泳ぐ魚たち。おそらく彼らはそこが水の中であるということを知らない。目前に浮遊するプランクトンをただパクパクと食しながら、その見えているのか見えていないのか分からないようなギョロリとした目玉で夢遊病者のように今日も海中を徘徊している。彼らはおそらく徹底した斜視である。その斜視のせいで、彼らには前が見えていない。いや、正確に言えば、前後を左右に見てしまっている。この意識が彼らの目の生態学的造形を決定づけている——。
魚たちにとっての、この「前」の見えなさは、現実を見えなくさせられた人間の意識の一種のメタファーだろう。僕らは確かに自分が人間の身体を持っていると信じて疑わない。しかし、その身体に自分の意識がくまなく行き届いているかというと、全くそうはなっていないのが分かる。自意識で自在にコントロールできるのは随意筋関連の部位ぐらいのもので、鼓動、血流、内臓機能、細胞内部の活動など、身体のほとんどの機能に対して、「わたし」は無力だ。その意味で言えば、自我意識は人間の身体が生成している場所からは遠くかけ離れたところにへばりついた寄生体のようなものである。だから、「わたし」はなぜ人間が二本足で歩くのか知らないし、なぜ二つの眼が顔面についているのかも知らないし、そもそも顔面というものが何なのかも知らない。となれば当然、「前」という方向についても何も分かっちゃいない、と言っていい。
「前を見る」ということはどういうことだろう?君は本当に前を見ているか? ひょっとしてあの魚たちのように常に横を見ているのではないか?前とは何だ?ちょっと考えて見ればすぐに分かることだが、「前を見る」という物言いは正しい日本語ではない。というのも「見ること」は絶えず「前」においてしか生起しないからだ。見えるのはいつも前――何のことはない。前とは世界が存在の開けを示してくる方向なのだ。しかし、僕らが慣れ親しんだ空間には、この「前」と相対する方向としての「後ろ」があり、かつ、左-右や上-下といった計6つの直交する方向性も存在している。古代人たちは、この6つの空間の方向性のことを「六合(くに)」と呼んでいた。もちろん、この「くに」は、現代人が考えているような「国(くに)」とは全く違ったものである。
「国」とはその字体が表しているように、有限の囲いによって内部に閉じ込められた玉の場所である。玉とは本来、物質化した霊(たま)を意味する言葉だが、ヌース的解釈ではこれは物質概念そのもののことにほかならない。世界は玉で満たされているのだ。よって、霊性が囲われた場所としての国とは、この場合、僕らが宇宙と呼んでいる場所性(時空)のことを意味すると言っていい。
時空はご存知のように空間部分だけ取り出せば3次元だ。しかし、この「国」的な3次元空間には「前後・左右・上下」といった身体側から派生してくる方向概念は一切存在していない。近代が作り上げた科学的な世界観においては、3次元の各方向は互いに入れ変え可能であり対称性を持っている。言うなれば、そこでは見事に「六合(くに)」が去勢させられているのだ。
話を分かりやすくしよう。僕らはこの近代が宇宙と呼んではばからない平板的な3次元の延長性を、すべて「前」として経験することができる。グルグル身体を回せばいいだけの話だ。しかし、そのとき、当然、この3次元は「後ろ」としても経験されていることだろう。この両者は同じ空間ではない。というのも、前を経験しているとき、同時に僕らは後ろを想像的なものとして経験しているからだ。いや、後ろだけじゃ話は済まない。左-右だって、上-下だって、それらは常に同時に身体感覚から派生してくる方向概念として併存している。となれば、「六合(くに)」には、本来、六種類の3次元空間が存在していることになる。
話を魚に戻そう。ヌース理論がいう「水」とは、これら身体空間における方向の差異が見えない3次元世界のことを指す言葉である。つまり、水とは「国」の中に捕われの身となった「六合」のことなのだ。そこでは「六合(クニ)」は「合六(ニク)」へと反転している。僕はこのニク化した身体を水蛭子(ヒルコ)と呼んでいる。水蛭子は水に溺れた種族として、左右方向への視力を用いて前後を見ている。君たちが奥行きに感じている距離とはそうした斜視の視力の産物である。
——魚類とはなんですか。
——原初精神の投影。人間の内面の意識次元の投影です。(シリウスファイル)




2月 1 2008
核質と反核質
今回の本ではヌース用語の乱発は極力避けた。これも今までの反省から。概念が十分に醸造されないままヌース用語を多用してしまうと、大方の場合、呪文にしか聞こえず、理解の妨げになるからだ。
今回のアドバンス・エディションを読んでもらうと分るんだけど、ヌース理論が試みているのは空間に潜んでいる高次元の次元階層を見抜く知覚能力の獲得なんだよね。空間を単なる3次元(時間を含めれば4次元)と見なしているのが僕らの通常の感覚なので、その意味で言えば、ヌースは超感覚的知覚(ESP)の奪取を目論んでいると言えないこともない。こういう言い方をするとさも難しい話のように聞こえるかもしれないけど、何のことたあない、ヘイ、エブリバディ、物質的な空間からゲットアウトして、身体的な空間にゴーしようぜ、と言ってるだけなのだ。ん?なんで今日はルー・大柴なんだ?
現在、執筆中の『The NOOS(仮題)』では、この身体を巡る3次元性を中心に心理学、物理学、神話、歴史、芸術、哲学、細胞、大気圏、地球、月などスキゾフレニアックに話がいろいろな横断を見せながら進んで行く。今回のアドバンス・エディションはこの新著へスムースに入れるようにするためのとりあえずのウォーミングアップと思ってもらうといいかなぁ。この100ページほどの付け足しは一言で言えば「身体における前-後とは何か」について書いている。
「前-後」と言っても物質的身体のことじゃないよ。意識的身体としての前-後ね。ここには実は鏡の秘密が潜んでいる。いきなり神道チックな表現を使えば、ヤタノカガミという迷宮から出るための最初の謎解きが、この前後のなぞときにあるってことだね。人間を構成している霊的な構造にはこうした鏡のペアが全部で4組存在させられていて、それら4組の合わせ鏡の秘密を順番に解いていくことが、ヌースがいう「次元観察子の顕在化」のことなんだ。カガミの秘密をすべて見抜いてしまえば、その中に閉じ込められていた黒いカラスはフェニックスへと生まれ変われる。フェニックスが生息している領域は空間次元でいうと7次元世界だな。仕組みはカンタン。
1、2、3
4、5、6、
7、8、9………
というように、空間の次元はあたかもマージャンパイのごとく構成されていると思えばいい。要は1次元の上には4次元が、4次元の上には7次元が常に同居してますよ、ってことだ。つまり、次元はイッスーチーの三面待ちをやってるのだ。ろ〜ん。
1、2、3次元とは、言うなれば物理学が用いているx-y-z、つまりモノを存在させている空間の3次元性だね。そこに身体における「前」が第4の次元として入り込んでくる(ここからヌース独自の空間論に入ってくる)。モノへの現実的観察が行なわれている空間だ。現実的観察はつねに「前」でしか行なわれることはないので、じゃあ「後ろ」って何だ?ってことになってくる。今度の本の第二部ではそんなことを100ページも費やしてシコシコ書いている。
そんなかんだで、大雑把、フランク・ザッパに言ってしまえば、身体の周囲に感じている3次元は実は、4、5、6次元になっているってことなんだ。巷で次元上昇、次元上昇って騒がれているけど、何のこたーない。人間自身の実存的な場所を再構築するってことがヌース的には次元上昇の本質なわけだ。ヌースではモノが存在する空間の3次元性のことを核質(かくしつ)って呼ぶ。ほんでもって、人間の身体が存在している3次元性のことを反核質って呼ぶ。核質は3次元空間で反核質は6次元空間。そしてそれらの対称性を見出すことを「核質の等化」といい、そこに観察精神ってやつが介入してくる。
実際、街に出たら分るけど、そこにはたくさんモノや人が忙しく動き回っているでしょ。つまり、空間には3次元と6次元が重なっているわけだ。で、その様子をまた君は「前」で見ることができている。。これは、ある意味、核質と反核質が7次元によって等化されてしまっているからなんだけど、その反映として中和側に位置させられた人間の意識にはその次元的な重なりに全く気づかないんだな。
そこまでの次元上昇の仕組みがぜぇ〜んぶ見えるようになることをヌースでは「覚醒」といいます。
2013年から空間に潜在化しているこの次元の差異の序列がぜぇ〜んぶ見えてくるようになります。というか、ヌースがぜぇ〜んぶお見せします。7次元が見えてくると、ようやくそこに宇宙空間との接続ができてきて、太陽系空間=原子空間への扉が開いてきます。。。。ほんとか?ほんとです。乞うご期待。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 5 • Tags: 人類が神を見る日