ヘンリー・ミラー、いつかじっくりと読みたい作家

「思うに芸術家も学者も哲学者たちも、みんなあくせくとレンズ磨きに精を出しているのではなかろうか。それらすべては、いまだかつて起こらない出来事のための果てしのない準備でしかない。いつの日かレンズは完成されるだろう。そして、その日にこそ私たち誰の眼にもはっきりと、この世界の驚愕すべき尋常ならざる美しさが見てとれることだろう」
ヘンリー・ミラー

私たちが目にする物は球面で閉じている。しかし、それを見つめる眼差し(奥行き)は物への射影線でもある。ここに見るものと見られるものが合流するルートがある。物の表面を2次元の射影空間とするなら、眼差しの所在は4次元空間ということになる。眼差しが幾重にも畳み込まれたものとしての物・・・

4次元は純粋経験の場。そこでは私と対象は未分化で、合一している。そこには経験する主体としての「私」の位置はない。「私」がいないのだから、対象もまた客体としては意識されない。その意味では4次元は「私」の経験ではないということ。「私」ヲ経験サセテイルモノ——と呼んだ方がいい。

アリストテレスの『魂について』では、ヌースが光に喩えられている。

「すべてを生み出すもの、それによってすべてが作られるものであるヌースは、ある意味で光のようである」

奥行きは光そのものである。そこには「いつでも今・どこでもここ」を拠点とする個別の能動知性が眠っている。
光の中には高次元の対称性の論理が働いている。ドストエフスキーはそれが神だとも言う。現代ならそれは素粒子に相当する。そこからどれほどの対称性をこの知性は生み出していくのか。光に始まり光に終わる存在という名の円環。その綴じ目に受肉したロゴスとしての「私」の身体が息づいている。OCOTのいう「重心」。
ミラーのいうレンズはすでに完成している。私たちが進むべきは、光の中の対称性の世界。ヌーソロジーの思考装置の一つであるケイブコンパスはそのための羅針盤だと思っている。

現実は観念と実在性との統一の達成においてこそ現実たり得る。つまり、すべての現実的なものは、それが理念をその中に孕み、理念を表現するものであるかぎりにおいてのみ存在しているということだ。物質と精神を統合する存在論的知覚はそのようなものとしてやってくる。
つまりは、外側から見ると物質。内側から見ると精神。これが理念が理念たりうる絶対的条件と言っていい。これがヌーソロジーが思考素としている観察子の定義でもある。つまり、観察子とは理念(イデア)だということ。

「かつて大衆の意識変革に成功した人はひとりもいない。アレクサンドロス大王も、ナポレオンも、仏陀も、イエスも、ソクラテスも、マルキオンも、その他ぼくの知るかぎりだれひとりとして、それには成功しなかった。人類の大多数は惰眠を貪っている。あらゆる歴史を通じて眠ってきたし、おそらく原子爆弾が人類を全滅させるときにもまだ眠ったままだろう」
ヘンリー・ミラー

ならば、内なる原子爆弾を炸裂させる以外ないではないか。君自身が内なる核兵器となれ!!——それがヌーソロジーのアプローチだ。