10月 13 2025
私たちは、世界を見る。
この一文を疑う者は、ほとんどいない。 けれど本当にそうだろうか? 「見る」という出来事は、本当に“私”から始まっているのだろうか?
フッサール現象学は、この問いに真正面から挑んだ。 世界が“そこに在る”のではなく、“現れる”ものであること。 意識が世界に向かう志向性こそが、“意味の生成”の源であるとした。 その試みは、「世界があることの驚異」への強靭な哲学的応答であった。
しかし、見るという行為が「志向性」に還元されたとき、 それは意識という容器のなかに閉じ込められる。 どれほど世界の“現れ”を記述しても、 それは“誰かが見ている”という前提を超えない。 見ることの現象性は、つねに“主体の裏影”として記述され続ける。
この欺瞞を、ドゥルーズは見抜いた。 彼は言う。表象の空間には差異が欠けている——と。 “誰が見るか”という問題を問うことなく、“何が見えたか”を語るだけなら、それはつねに主体の影の中で回る自己同一性の演技に過ぎない。 見ることの根源には、“自己の誕生すら引き裂く力=差異”があるのだと。
ヌーソロジーはさらに、見るという行為を空間的出来事として差異化する。 私が見るのではない。 世界の深奥から、「見よ」という声が響くとき、 その呼びかけが私を“観測者の位置”へと生成するのだ。 このとき、目とは単なる器官ではなく、 「無限遠点から私を貫く奥行きの軸」そのものになる。 ここで言う奥行きとは、三次元的な遠近のことではない。 それは、空間の表象が生じる以前に私を“開いてしまった”空間、 すなわち、次元観察子ψ3の位置、4次元目の前側軸である。
現象学がいまだ表象の残滓を拭い去れなかったのは、 「見るという出来事」の始源性を、意識の働きとしてしか捉えられなかったからだ。
しかし、ヌーソロジーは見ることの始源を、“位置の生成”として空間的に取り戻す。 意識が意味を与えるのではなく、 意味の地平が、私の“見ること”を生成していた。 それは、主体が世界を立ち上げるのではなく、 世界が、私を“観測者”として差し出していた、という反転である。
この反転こそが、 見るという出来事を“存在の側”へと返し、 そのまなざしの奥に、 差異そのものが語りはじめる場所を開く。 そして、私たちはようやく次のように問えるようになる。 「私は、どこからやってきたのか?」と。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: ドゥルーズ, フッサール
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ヌーソロジーサロン
ヌースコーポレーション
半田広宣(ハンダコウセン)
著書 「奥行きの子どもたち」「人類が神を見る日」「光の箱舟」他
10月 13 2025
「見ること」の転回 — 表象の彼方へ
私たちは、世界を見る。
この一文を疑う者は、ほとんどいない。
けれど本当にそうだろうか?
「見る」という出来事は、本当に“私”から始まっているのだろうか?
フッサール現象学は、この問いに真正面から挑んだ。
世界が“そこに在る”のではなく、“現れる”ものであること。
意識が世界に向かう志向性こそが、“意味の生成”の源であるとした。
その試みは、「世界があることの驚異」への強靭な哲学的応答であった。
しかし、見るという行為が「志向性」に還元されたとき、
それは意識という容器のなかに閉じ込められる。
どれほど世界の“現れ”を記述しても、
それは“誰かが見ている”という前提を超えない。
見ることの現象性は、つねに“主体の裏影”として記述され続ける。
この欺瞞を、ドゥルーズは見抜いた。
彼は言う。表象の空間には差異が欠けている——と。
“誰が見るか”という問題を問うことなく、“何が見えたか”を語るだけなら、それはつねに主体の影の中で回る自己同一性の演技に過ぎない。
見ることの根源には、“自己の誕生すら引き裂く力=差異”があるのだと。
ヌーソロジーはさらに、見るという行為を空間的出来事として差異化する。
私が見るのではない。
世界の深奥から、「見よ」という声が響くとき、
その呼びかけが私を“観測者の位置”へと生成するのだ。
このとき、目とは単なる器官ではなく、
「無限遠点から私を貫く奥行きの軸」そのものになる。
ここで言う奥行きとは、三次元的な遠近のことではない。
それは、空間の表象が生じる以前に私を“開いてしまった”空間、
すなわち、次元観察子ψ3の位置、4次元目の前側軸である。
現象学がいまだ表象の残滓を拭い去れなかったのは、
「見るという出来事」の始源性を、意識の働きとしてしか捉えられなかったからだ。
しかし、ヌーソロジーは見ることの始源を、“位置の生成”として空間的に取り戻す。
意識が意味を与えるのではなく、
意味の地平が、私の“見ること”を生成していた。
それは、主体が世界を立ち上げるのではなく、
世界が、私を“観測者”として差し出していた、という反転である。
この反転こそが、
見るという出来事を“存在の側”へと返し、
そのまなざしの奥に、
差異そのものが語りはじめる場所を開く。
そして、私たちはようやく次のように問えるようになる。
「私は、どこからやってきたのか?」と。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: ドゥルーズ, フッサール