目から物を見ていると考えるのをやめよう

私たちはふつう、「目で物を見ている」と考えています。
しかし、この当たり前の認識こそが、
私たちの“見る”という行為の本質を覆い隠してしまっていることに、気づいている人はほとんどいません。

・見ているのは“物”ではなく、“意味”だった
あなたがリンゴを見るとき、
あなたの視線がリンゴに触れていると思うかもしれません。
けれど、その瞬間、あなたが見ているのは本当に“リンゴ”でしょうか?
実際には、あなたが見ているのは、
「それをリンゴと呼ぶ意味」──つまり、言葉の枠組みで解釈された世界なのです。
つまり、“見る”という行為の中に、すでに“語る”という構文が先回りしてしまっているのです。

・ヌーソロジーはこう問いかけます。「あなたは、どこから見ているのか?」
これは哲学的な問いであると同時に、空間的な問いでもあります。
あなたが「目から見ている」と思っているその視線は、
すでに意味づけされた世界の中に沈み込んでいる“客体化された視線”です。
言い換えれば、あなたは“他者の視線”の中で自分を見ているのです。

・後頭部から前を見る──“見る”の原点へ戻る
ヌーソロジーが提案するのは、「後頭部から前を見てみよう」ということです。ここに現れるのが本当の”前”です。
この奇妙な提案の背後には、深い空間哲学があります。
後頭部の表面に当たるところ、そこには「見ようとする前の眼」があります。
それはψ6という自己中心化した空間の原点。
そこから右巻きに空間が開き、it軸の方向として“純粋な前”が立ち上がってくる。
目で見ていると、あなたは世界の中の一点に固定されます。
けれど、後頭部から見ると、あなたは世界そのものの中心に戻るのです。

・「言葉を見る」から「言葉が生まれる空間を見る」へ
“目で見ている”と思っている限り、あなたが見ているのは“言葉によって意味づけられた世界”です。
それは過去の記憶、他者の視線、社会の構文の中に埋もれた世界です。
けれど、もしあなたが“視線そのもの”へと戻り、“見るという出来事が起こる場”へとアクセスできたなら、あなたは言葉がまだ生まれていない空間を垣間見ることができるのです。

・世界を見るとは、空間構文の始原に触れること
ヌーソロジーが語る“空間構文”とは、
世界が「見える前」に広がっている、意識と空間の共鳴構造のことです。
私たちは、“意味”を通して世界を見ているのではない。
意味が立ち上がる前の“見ることそのもの”の場から、世界は立ち上がっている。その場所へと移動することが重要です。

・いま、この瞬間からできること
見ているものを「名前」で捉えようとするのをやめてみてください。
視線の発出点を、自分の「後頭部」に戻してみてください。
物を見るのではなく、“見ているという感覚”が起きている場所そのものを感じてみてください。
それは、あなたが世界を「生きている」という出来事の、
いちばん最初の場所です。

・見ることの解放
「目から物を見ている」と考えると、
世界は固定され、あなたもまた固定されます。
けれど、「後頭部から世界を開いている」と知ったとき、
あなたの意識は、言葉の奥に眠る自由な空間に触れ始めます。
そこにあるのは、まだ誰のものでもない、
あなた自身の見る世界です。
それは、
世界が“私を見る前”に、私が世界を創っていたということの思い出の場です。
懐かしくありませんか?