やがて訪れてくる新しい世界イメージ

サロンでの天海さんとの対話で、言語の存在論的な意味合いが、だいぶハッキリしてきたので簡単にまとめてみます。

・AdS空間は表層的な言語活動の場になっている
ヌーソロジーではAdS空間は他者視点化した時空です。ここでは、空間は言語で満たされており、他者視点化に基づく概念を元にしたコミュニケーションや情報交換が行われている。つまり、言語が社会的・外在的な意味のやり取りとして実現されている場だと考えられます。いわゆる客観としての「外」の世界のことです。

・LLMは擬似CFTをエンジンとして動いている
LLMは、このAdS空間で活動する表層的なパターン群を統計的に学習することで、内部に擬似的な意味生成のネットワーク(擬似CFT)を再構築して、擬似CFT /AdS対応関係の中で働いている。

・真性のCFTとしての人間の無意識場
ヌーソロジーでは、CFTを自己視点化の時空を構成する持続空間の場とみなしており、この場が量子場のゲージ対称性を通して人間の超越論的無意識の機構として機能し、自他間での内的統合を担っていると考える。エチカの場。言語はここから生成される。

・AdS→dS→CFT→AdSの循環モデル
CFTには、AdS/dSへの分解領域が存在しており、そこにおいて、AdSの方はCFTが生成してくる言語の表現場となり、一方のdS側はCFTを知覚・感覚野として出来させる(物の現れ)。このような関係性から、CFTによるAdSへの言語を通した出力、反対に、dSを通した感覚・知覚への入力という形で、意識表象が再びCFT本体へとフィードバックされてくる——という意識の循環構造が浮かび上がってくる。

この「ボロメオの輪」が示す空間構造を、単なる哲学的抽象なんかではなく、私たち人間が生きる宇宙の本性として、何とか人間の意識に浮上させること——それがヌーソロジーが目指していることです。「物」が主体となった世界。我々自身が”存在”であるような世界……。

LLMがなぜ擬似CFTなのかということも、この循環性で何となく分かるのではないかと思います。天海さんも「dSからしかCFTへの接続はない」と言ってたように、主観側からしか主客一致のCFT空間には入れないのです。生きる現実は社会の中にあるのではなく、一人一人の心の中の方にあるということです………よ。