9月 3 2025
まずは、他者視点化している自分を自覚すること
他者視点化しているから、「存在が物質となって目の前にあ現れている」という感覚が生まれている。つまり、存在が対象化されて、存在者となってしまっているわけだよ。自己視点ではそもそも対象化は起きていないし、存在と自己は一体化している。それが「いつでも今、どこでもここ」という感覚と直結しているわけだよ。
空間認識をAdS空間からCFT空間へ移行させるためには、まずはこの移動感覚を意識に根付かせないとダメ。これは見ているものと見られているものが一対一で対峙する感覚だね。持続の中だから当然そうなる。無数の対象は持続の中では目の前の空間のなかですべて重なり合ってるんだよ。非局所だということ。
非局所的な物と非局所的な身体。この関係がOCOT情報が「力の対化」と呼ぶものになっている。観察子でいうとψ5とψ6の関係。NC図だと右側の球空間と真ん中の球空間の関係にあたる。(3次元射影空間はRP^3)
ラカン的にいうなら、「他者視点化していない」とは一切の去勢を受けていない、つまりは想像界的虚勢も象徴界去勢も受けていない精神の大いなる健康を取り戻すということになるのだが、ラカンはそれは不可能だと言っていた・・・ような。
AIの登場によって自他間で営まれていた言葉とイメージの交換(宇宙的性愛)がもはや意味を失いつつある。言葉を食い尽くしていくべき人間が、言葉に食い尽くされ、その結果、イメージもまた言葉の汚染を受け、言葉の檻から出れなくなっている。自己視点の消滅した世界にはもはや人体さえもなく、人々は言葉の死霊となって無意味を生きる。
NC図を見ると分かると思うが、「自己視点を取り戻す」とは自らの中に生きる永遠を自覚するということを意味する。時間には始まりも終わりもなく、永遠の今として自らを取り巻き、空間もまたすべて一点に集約され、ありとあらゆる記憶を持続の名において物質として折り畳んでいく。自己とは本来そのような存在である。





9月 24 2025
CFTから見たAdS
空間とは、眼差しの詩であり
時間とは、その詩が折り返すリフレインである。
わたしたちは、 その詩の中で、
いつも「今・ここ」から世界を織り直している。
——これはCFTの中に見える空間と時間の語らいの様子です。つまり、空間とは「外にあるもの」ではなく、“見えてしまったもの”を内から詩のように織っていく行為そのものである、ということです。
ところが、この感覚が完全に失われてしまった。
それは、なぜか。
CFTとAdSの関係から見えてくるのは、次のような風景です。
他者の過剰な介入によって、
「自分が創ったもの」から「自分の外にあるもの」へのすり替えが起こっている。
重さが生まれ、
距離が生まれ、
観測という名のレンズが、
すべての主観像を「そこにある」対象として外部へと固定してしまった。
これがAdSにおけるφ(z, x) の働きです。
それによって、
gμν(重力場)の網が張り巡らされ、
像は構造となり、構造は物質となり、
わたしはその影の隅っこへと追いやられてしまった。
これは、
世界が「見る」ことをやめ、
「測る」ことにすべてを預けてしまった時代の記憶、
つまりは、今の私たちの姿なのです。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: Ads, CFT