8月 28 2025
AdS(他者世界)とdS(自己)をいかにしてCFTへと導くか
AdSとdSは対立ではない。互いに補完し合う双子の関係にある。二つで一つの二元論を形作り、人間の意識の土台として働いている。
AdS——SO(2,3)の負の曲率を持つ時空——では、自己が他者の視点に埋没している。ここでは他者視線(時間軸)、つまり実時間(t軸)が支配的となり、自己の奥行きはそのまま時間tとして見立てられ、そのせいで空間がマイナス側に歪んでいる。
この領域は物質的世界観が支配する場だ。科学的な客観性が根を張り、自己と他者は「人間」という一般化によってその差異を剥奪され、重力によって抑圧を受ける。
それに対してdS——SO(1,4)の正の曲率を持つ世界——では、持続が空間に投影され、膨張として現れる。虚時間(it軸)が空間に影響を及ぼし、プラス側へと広げようとするのだ。自己はそれを自身の内なる宗教的衝動として感じ取る。dSには精神性が息づいており、その持続の奪回への欲望が意識に深さをもたらしている。
この二元論は明確なので、各々しっかりインプットしてほしい。
AdSは物質を映す。実軸的で、他者の奥行きが時間的展開として開き、非持続の領域を形作る。
dSは精神を映す。虚軸的で、自己の持続が空間的膨張として立ち上がり、意識の深さを刻む。
人間の問いかけに対して、AdSは「物質だ」と答え、dSは「精神だ」と答える。二択を突きつけてくるのだ。当然、科学はAdSに寄り、宗教はdSに寄る。だが、この二つは単なる対極ではない。双子として、互いを必要とし、互いを補い合っている。
そこに時の定めとして全きヌースの雷光が現れる。その役割は、双方を等化し、CFTへと導くことだ。AdSのマイナス曲率とdSのプラス曲率は、CFTを境界にして拮抗している。AdS/CFT、dS/CFTの双対関係が、この境界を物質と精神の「中間領域」として位置づけている。すなわち、この場所こそが起源(アルケー)だ。
ヌーソロジーは、ウィック変換をCFTへの架け橋し、実時間(t軸、AdS)と虚時間(it軸、dS)をt→itでつなぎ、CFTのスケールフリーな場へと意識を変換する。これによって時間も空間も「実と虚」の二元論を超えるのだ。
AdSの「他者視点の物質性」とdSの「自己視点の精神性」は、CFTで「差異の等化な場」へと変貌する。それによって自己と他者の奥行きが、虚軸と実軸の対等な共存となって、二組の十字架の中に調和と生成を形成する。それが量子場だ。
CFTで等化されると、物質(AdS)の時間的埋没と精神(dS)の空間的膨張が、スケール不変な「持続空間」、すなわち永遠の中に溶け合う。SO(2,3)の歪み——自己が他者に埋没し、時間が支配する負の曲率——と、SO(1,4)の歪み——持続が空間に広がり、膨張する正の曲率——が、CFTの対称性によって打ち消されるのだ。
そのようにして、この思考は、物質か精神かの二択を突き破り、意識と宇宙を新たな始源の地平に立たせるのだ。
9月 3 2025
まずは、他者視点化している自分を自覚すること
他者視点化しているから、「存在が物質となって目の前にあ現れている」という感覚が生まれている。つまり、存在が対象化されて、存在者となってしまっているわけだよ。自己視点ではそもそも対象化は起きていないし、存在と自己は一体化している。それが「いつでも今、どこでもここ」という感覚と直結しているわけだよ。
空間認識をAdS空間からCFT空間へ移行させるためには、まずはこの移動感覚を意識に根付かせないとダメ。これは見ているものと見られているものが一対一で対峙する感覚だね。持続の中だから当然そうなる。無数の対象は持続の中では目の前の空間のなかですべて重なり合ってるんだよ。非局所だということ。
非局所的な物と非局所的な身体。この関係がOCOT情報が「力の対化」と呼ぶものになっている。観察子でいうとψ5とψ6の関係。NC図だと右側の球空間と真ん中の球空間の関係にあたる。(3次元射影空間はRP^3)
ラカン的にいうなら、「他者視点化していない」とは一切の去勢を受けていない、つまりは想像界的虚勢も象徴界去勢も受けていない精神の大いなる健康を取り戻すということになるのだが、ラカンはそれは不可能だと言っていた・・・ような。
AIの登場によって自他間で営まれていた言葉とイメージの交換(宇宙的性愛)がもはや意味を失いつつある。言葉を食い尽くしていくべき人間が、言葉に食い尽くされ、その結果、イメージもまた言葉の汚染を受け、言葉の檻から出れなくなっている。自己視点の消滅した世界にはもはや人体さえもなく、人々は言葉の死霊となって無意味を生きる。
NC図を見ると分かると思うが、「自己視点を取り戻す」とは自らの中に生きる永遠を自覚するということを意味する。時間には始まりも終わりもなく、永遠の今として自らを取り巻き、空間もまたすべて一点に集約され、ありとあらゆる記憶を持続の名において物質として折り畳んでいく。自己とは本来そのような存在である。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: 3次元射影空間, Ads, CFT, OCOT情報, ヌースコンストラクション, ラカン