科学の前提 — 「あるもの」の絶対視

科学的認識とは、基本的に

光が物体から発せられる
or
反射する → 目に届く → 脳が処理して像を作る

——という“他者視点で構成されたモデル”のうえに成立している。
つまり、最初から最後まで、「あるもの(=物体、光子、神経、脳)」の系列で世界を語っている。
このモデルの最大の欠点は、「見る」という現象の“現前性”そのものを語れないことにある。

よく考えてみよう。
私が「見ている」という感覚、
世界が「開いている」という出来事、
色や奥行きや質感といった“意味としての感覚世界”、
これらはすべて、「いる」ものの世界に属している。にも関わらず、科学はそれを「ある」ものから推定しようとしている。
これはまるで、影を使って光の源を論じるようなもので、
いくら精緻な数式や計測機器を積み上げても、「現象の出現」という原点には辿り着けない。
なのに、なぜ科学はその限界に気づかないのか? ここが大事なところ。

まず、“客観的”という前提が、すでに他者視点化された世界であることに気づいていない。
「見ること自体」がすでに他者の目で見ているようなモデルで語られている。
つまり、“見るという出来事”そのものを対象化しようとするから、“見る以前”にある“立ち上がり”に触れることができない。

結論としてこう言える。
科学は「光の物理」を説明できても、光に出会っている“私”を説明することができない。
見ることは、光を受け取っているのではなく、光が“私”を立ち上げている出来事なのだ。
それは、「あるもの」の連鎖の果てには決して現れない、「いること」の始源的事件である。
新しい時代の思考は、そこから開始されるべきだ。