私たちは普段、「見る」という行為を当たり前のものとして受け入れている。
目を開ければ、そこに物がある。
対象があって、観察者がいて、そのあいだを光が結んでいる。
まるで世界は、最初からそこに「在る」もののように思われる。
だが本当にそうだろうか?
ヌーソロジーの視点から見れば、
私たちが「見ている」と思っているその視覚には、
ある重大な“転倒”が潜んでいる。
それは、「世界を見る者」と「世界が見えること」を
まるで別々のものとして扱ってしまっていることだ。
人間の意識は、あまりにも長い間、
「自己が主体で、世界は客体である」という前提に支配されてきた。
見る私と、見られる世界。
思考する者と、思考される対象。
そのあいだに置かれた“距離”こそが、意識の基盤だった。
しかしヌーソロジーは、こう問いかける。
本当にその距離は最初からあったのか?
その距離を成立させている“見る”という行為は、誰のものなのか?
答えはこうだ。
「見る者」は、世界から分離した主体ではない。
世界そのものが、見るという形式を通して、自らを顕在化させている。
つまり、
視覚とは主観的行為ではなく、
“世界が自己を立ち上げる運動”そのものなのである。
この見方の反転は、私たちの意識に大きな転機をもたらす。
視覚はもはや「自分が対象を見る」ことではなくなる。
“空間が、空間自身を生きている”という在り方が、
視覚として現れているだけなのだ。
しかし、その視点が他者側へと傾いたとき、
“わたしが世界を見ている”という幻想が現れてしまった。
その幻想に生きている限り、
この”わたし”は他者に従属して生きるしか術がない。
他者化した視点から出ること。
見ることがそのまま存在となる本来の自己の位置を取り戻すこと。
10月 14 2025
《“見る”という行為の反転へ》その1
私たちは普段、「見る」という行為を当たり前のものとして受け入れている。
目を開ければ、そこに物がある。
対象があって、観察者がいて、そのあいだを光が結んでいる。
まるで世界は、最初からそこに「在る」もののように思われる。
だが本当にそうだろうか?
ヌーソロジーの視点から見れば、
私たちが「見ている」と思っているその視覚には、
ある重大な“転倒”が潜んでいる。
それは、「世界を見る者」と「世界が見えること」を
まるで別々のものとして扱ってしまっていることだ。
人間の意識は、あまりにも長い間、
「自己が主体で、世界は客体である」という前提に支配されてきた。
見る私と、見られる世界。
思考する者と、思考される対象。
そのあいだに置かれた“距離”こそが、意識の基盤だった。
しかしヌーソロジーは、こう問いかける。
本当にその距離は最初からあったのか?
その距離を成立させている“見る”という行為は、誰のものなのか?
答えはこうだ。
「見る者」は、世界から分離した主体ではない。
世界そのものが、見るという形式を通して、自らを顕在化させている。
つまり、
視覚とは主観的行為ではなく、
“世界が自己を立ち上げる運動”そのものなのである。
この見方の反転は、私たちの意識に大きな転機をもたらす。
視覚はもはや「自分が対象を見る」ことではなくなる。
“空間が、空間自身を生きている”という在り方が、
視覚として現れているだけなのだ。
しかし、その視点が他者側へと傾いたとき、
“わたしが世界を見ている”という幻想が現れてしまった。
その幻想に生きている限り、
この”わたし”は他者に従属して生きるしか術がない。
他者化した視点から出ること。
見ることがそのまま存在となる本来の自己の位置を取り戻すこと。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0