最近は言葉について、ヌーソロジーの観察子構造の地図を片手に色々とイメージを巡らしている。その中で、「自分の話す声を聞く」というデリダの言葉がやたら引っかかるようになった。。
私たちは、ふだんあまり気にとめることなく、自分の声を使ってしゃべっている。言葉を発し、それを耳で聞く。そのことに、別に何の不思議も感じてはいない。
しかし、哲学者のジャック・デリダは、この「自分の話す声を自分で聞いている」という現象に、鋭い問いを投げかけた。
それは、本当に「自分だけの声」なのか?
その声を「聞いている私は」、本当に「話している私」と同じなのか?
あるいは、もう一人の“誰か”が、その声を聴いているのではないか?
デリダは、声を発する自己と、それを聞いている自己のあいだに、ある「ずれ」や「差延(ディファランス)」が存在するのではないかと考えた。
この「差延」は、自己のうちにすでに“他者”が入り込んでいるという感覚でもある。この問題意識は、ヌーソロジーが語る「見ることと聴くことのねじれ」や、「自と他の相互反転的な関係性」とも深く響き合っている。
目で見る世界は、あくまで“私”の内側で完結している世界だ。しかし「聞く」という行為は、自分の外に開かれており、常に“誰かの声”を伴ってやってくる。
そして——その声が“私の声”であっても、それを聞いている“私”は、すでに“私ではない何者か”になっている。といのも、彼は私の声も、他者の声も同時に聞いている者なのだから。
そんな視点に立つとき、私たちが「耳を澄ます」という行為の意味も、まったく別の深みを持ち始める。
12月 1 2025
「自分の話す声を聞く」とはどういうことか
最近は言葉について、ヌーソロジーの観察子構造の地図を片手に色々とイメージを巡らしている。その中で、「自分の話す声を聞く」というデリダの言葉がやたら引っかかるようになった。。
私たちは、ふだんあまり気にとめることなく、自分の声を使ってしゃべっている。言葉を発し、それを耳で聞く。そのことに、別に何の不思議も感じてはいない。
しかし、哲学者のジャック・デリダは、この「自分の話す声を自分で聞いている」という現象に、鋭い問いを投げかけた。
それは、本当に「自分だけの声」なのか?
その声を「聞いている私は」、本当に「話している私」と同じなのか?
あるいは、もう一人の“誰か”が、その声を聴いているのではないか?
デリダは、声を発する自己と、それを聞いている自己のあいだに、ある「ずれ」や「差延(ディファランス)」が存在するのではないかと考えた。
この「差延」は、自己のうちにすでに“他者”が入り込んでいるという感覚でもある。この問題意識は、ヌーソロジーが語る「見ることと聴くことのねじれ」や、「自と他の相互反転的な関係性」とも深く響き合っている。
目で見る世界は、あくまで“私”の内側で完結している世界だ。しかし「聞く」という行為は、自分の外に開かれており、常に“誰かの声”を伴ってやってくる。
そして——その声が“私の声”であっても、それを聞いている“私”は、すでに“私ではない何者か”になっている。といのも、彼は私の声も、他者の声も同時に聞いている者なのだから。
そんな視点に立つとき、私たちが「耳を澄ます」という行為の意味も、まったく別の深みを持ち始める。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: ジャック・デリダ